オタクという存在の意味
あんたにも好きな有名人ってのがいるかい?
いわゆるアイドルオタク的なヒトたちは普通に今も世の中にいるんだと思う。
でも、俺の交流範囲が狭いせいかもしれないけれど、あんまりそういうヒトたちの熱烈な思いってのを聞く機会は実はそんなに多くない。
あ、ミヒカメラことオオクボミヒカさんはストレートにGACKT愛を語ってくれているかも。
でさ。
本質的に誰かを好きになったり憧れたりってのはネガティブなものじゃないはずじゃんか。
俺がガキンチョの頃に比べれば、○○オタクというヒトに対する風当たりはめちゃくちゃ少なくなったと思う。
それでも、自分の理解できない趣味趣向に対しての違和感みたいなものは感じることもあると思う。
例え、その感じているヒトが何かの○○オタクであったとしてもね。
今回は、ヒトがなにかを好きになるってことについて考えてみる回だ。
ちっと、好きって何かって考えてみようぜ。
何かを好きになる幸せ
今回この「何かを好きになる」ってことについて考えるきっかけをもらったのはこのnoteだった。
俺さ、この久保マシンさんのハルコの恋って好きなのよ。
なんつーんだ?
地味深いっていうか、ヒトのつながりを通じて表現される暖かみっていうか。
うまく言葉にできないんだけれど、スゴい好きのよ。
その読後感が。
でね、この主人公ハルコは苦労の多い人生に翻弄されながら自分の好きって感情を反芻することなく年を重ねていった女性なわけだ。
そんななかで、突如とあるアイドルに対する好きという感情が押さえられなくなる。
ハルコの恋はそんな好きという感情を軸にした人間関係エンタメなんだよな。
でだよ。
俺にはこんだけ好きになれて、夢中になって調べて、深く深くひとつのことにのめり込めてるんだっけ?って思ったりもする。
言い換えれば、ハルコの感じている幸せを俺は感じられているんだっけ?って話だ。
自分は○○オタクだと言い切れるか
例えばだ。
俺はアニメ鑑賞が好きだ。
でも、いわゆる美少女アニメとかはあまり好んでみてない。
進撃の巨人だったり、ベルセルクだったり、宇宙戦艦ヤマトだったり、ガンダムだったりが好きだ。
あえて言うなら感情の重みを感じられる作品が好きだ。
その意味では小説ならマイケル・ムアコックさんのエターナルチャンピオンシリーズも好きだし、ドラマならドクターコトーとかもわりかし好きだ。
でも、俺は小説オタクやアニメオタク、ドラマオタクを名乗れるとは思っていない。
それほど知識が各々のジャンルそのものについて深いと自分自身が思えないからだ。
なら個別の作品についてはどうだ?
例えば進撃の巨人はメチャクチャ好きだけれども、普通に理解できない表現もたくさんある。
多分知識的には俺のなかで一番深い作品ってなると宇宙戦艦ヤマトになるとは思うけれど、他のヒトよりも造詣が深いと言い切れる自信は全然ない。
あれ?
俺はオタクを自称できないヒトなのか?
オタクと専門家
そこで考える。
オタクの資質の本質ってなんだ?ってね。
オタクは「知識」が前提なのか?
多分違うよな。
オタクの前提はあくまで「好き」にあるはずだ。
知識だけで言うなら、アイドルにしてもアニメにしてもアイドル本人や作品を作り上げた作者以上に知識は持ち得ない。
そう考えると、知識をオタクの前提条件にしてしまうと、オタクという存在が論理的に存在できなくなる。
少なくともコンテンツに対するオタクという存在はね。
思うに、知識は専門家の前提条件であって、オタクの前提条件じゃないんだよ。
好きは測れるか
ところがだ。
オタクの前提条件は「好き」ですよってなると別の歪みがでてくる。
「好き」って感情は外部から客観的に計測することができないんだよね。
発汗や呼吸などのバイタルデータからそのヒトが何かに対して「好き」と感じていると「予想」することはできるかもしれない。
でも、「好き」という感情そのものを観測はできない。
だとすると、なにか?
自分以外の誰かを「あのヒト○○オタクだよね~」って表現はなにも根拠を持てないってことなのか?
でも、実際同じなにかを「好き」っていうので形成されている集団はあるじゃんか。
そこまで書いて、はたと思う。
あ、そうか。オタクって虚構だったんだ。
何々が好きという感覚を共有するために○○オタクという言葉をつくって、その言葉をもとにヒトが協力しあうための旗にしたってわけだ。
つまり○○オタクというネームプレートをつけることで仲間を見つける事が出来るようになるってわけだ。
それなら、俺もアニメオタクで良いし、政治オタクで良いし、小説オタクでも良いってスンポーだな。
なあ、あんたはどう思う?
オタクという言葉のもとに集うことで、俺たちは何を産み出すことが出来るんだろう?
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