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俺たちの情報

あんたはこの情報過多の世の中における報道ってのがどういう意味を持ってくるのかなんてことを考えることがあるかい?

俺の発信を含めて、個人が手軽に自分の意見をネット上で流通させるってのが普通に起きている状況になってから、だいぶ年月が経っている。

個人の発信ってのはその根拠とセットに行われることはまれで、特にXみたいな文字数制限があるSNSでは、そもそもそれがホントのことなのかを単体で判断できる情報が盛り込まれていないのが普通だよな。

さらにそこにAIによるホントかどうかが分かっていないのに、その情報単体で見ると実に確からしいものが流通されているなんてことも起きてきている。

で、情報を発信しながらも、情報の消費者である自分たちは出来るだけホントのことを知りたいと思うから、ほかの発信とかと比べてその信ぴょう性を確かめに行くわけだけれども、それも結局は難しい側面がある。

今回は情報ってものとの向き合い方について考えてみる回だ。

ちっとこの難しい世の中について考えておこうぜ。


マスコミという情報源

ネットが一般化する前の俺たちの情報源と言えば、雑誌やテレビなどのいわゆるマスコミが提供してくれるものが、ほぼほぼ全てだったと思うんだよな。

なけなしの小遣い握りしめちゃあマイコンベーシックマガジンを買いに行ったもんだ。

おおう、これ380円だったんだ。ビッグマックが370円だった時代に、ビッグマックプラス10円でこれを読めていたってのはワリカシ破格かもしらんなぁ。

で、その時代も今も変わらないけれど、マスコミというのはNHKのような特殊な存在を除けば、活動の原資に広告というものを使うことになる。

当然ながら広告主ってのがマスコミにとってはお客様になるわけなので、そこに忖度した報道になるのは仕方のない部分ではあると思うんだよな。

なに?お客様は雑誌なりを買う俺たちじゃないのかって?

それもそうなんだけれど、雑誌ってのは昔から広告がないと成立しない構造になっていたんだよな。

実際、あんたも買った雑誌によくわからない首飾りを買うと大儲けできる的な広告みたことあるべ?
あれ、ホントに買ったヒトっているわけだよな。きっと。
じゃないと広告として成立しないもんな。

で、忖度。

これがある前提でマスコミの報道を眺めていないと、情報がゆがんで伝わるってのはあるってのが現実だと思うんだよな。

無料の情報が流れまくる世界

で、ネットが俺たちの生活に溶け込んできてから、この情報に対する価値ってのがめちゃくちゃ下がったってのはある気がするんだよな。

例えば朝日新聞は世の中に出回り始めたのは1879年らしいんだけれど、その時の値段は4ページで1銭だったらしい。

当時の1円は今の2万円くらいの価値があったって話だから、1ページあたり50円払ってでも情報を手に入れようとしていたってわけだ。

今じゃ4ページの新聞に200円払うとか考えられないべ?

それだけ俺たちは情報の海につかりきっているってわけだ。

AIが届ける情報

で、そんな無料の情報が無限とも言えうる勢いで増えている中で、俺たちはその情報の取捨選択ってのを迫られている。

当然、全部の情報に目を通すことなんてデキッコナイスなので、その取捨選択って行為そのものに俺たちはからくりを利用し始めた。

検索エンジンだ。

検索エンジンは俺たちが望むものを良い感じで俺たちに見せてくれている。
と、多くのヒトは感じていると思う。

現実として、検索エンジンが伝えている情報の正当性について裏を取ることなんてほぼ出来ていないんだけれど、その情報に対する信頼度ってのはある意味宗教的なものすら感じるんだよな。

だってその信頼度を確かめる方法が俺たちにはないんだもんよ。

まだマスコミの広告に対する忖度の方が想像がつくってのはある気もするじゃん?

そして、最近じゃ検索というヒトの行為すら経由せずに俺たちの手元に情報は届けられ続けている。
ニュースサイトに表示されるニュースの取捨選択なんてあんたもしていないだろ?

俺たちの中を通り抜けている情報は俺たち自身が判断できないからくりによってより分けされて、俺たちはそれによって俺たち自身の意見ってのを作り上げられているってわけだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこれから俺たちの手元を通り抜けていく星の数ほどの情報をどうとらえていけば良いんだろうな?

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