エヴァンゲリオンがつなぎとめるもの
シン・エヴァンゲリオンが2020年6月に公開されるのは、あんたも楽しみにしていると思うんだよな。
1995年にTVアニメーションとして世に放たれたエヴァンゲリオンという作品は、その時代背景に後押しされながら受け入れられた。
その多くの謎やモチーフが「作品を語ること」ってニーズを掘り起こすことで、1995年という時代にマッチしたってことなんだと思う。
その次代の何にマッチしたのか?
今回は、エヴァンゲリオンという作品がなぜ受け入れられたのか?ってことについて考えてみる回だ。
まあ、肩の力抜いてつきあってくれよな。
エヴァンゲリオンという作品
1995年。その当時、俺は大学を卒業して、大学院に行かせてもらった年だった。
大学で学んだことは多かったけれど、それだけで社会に通用する人間になったと全く思えなくて、親に頼み込んで大学院に行かせてもらったって感じだった。
そんなふうに、社会から逃げていた俺にストレートに響くアニメーション作品がやってきた。
エヴァンゲリオンだ。
「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。」
あれだけストレートに思春期の若者の心情を表現しているセリフって無いよな。
あのセリフが冒頭1話目に持ってこられた時点で、俺はその作品の虜になってしまった。
TVアニメーションとしては、制作スピードが毎週の放送というスパンに耐えることが出来ず、最終話は全く話の筋と関係ないおめでとうで締めくくられてしまった。
エヴァンゲリオンが世に受け入れられた背景
なんでこのエヴァンゲリオンという作品が世に受け入れられたんだろう?
その理由にはやっぱり時代背景というものがあると思う。
つまり、インターネットによるコミュニケーションが普段の生活に浸透していたってことだ。
エヴァンゲリオンという作品は非常に多くの謎が散りばめられている。
その散りばめられている謎は俺たち視聴者に「語る」というニーズを与えてくれた。
それまでであれば、友達と学校で語り合うって程度のコミュニケーションで収まっていたそのニーズ。
そこで現れたインターネット。
語り合いたいというニーズは瞬時に世界をめぐる。
俺たちはまるで何かにとりつかれたようにこのエヴァンゲリオンという作品について語り合った。
俺たちの「語り」という情報はこのエヴァンゲリオンという作品を更に広めていく。
まるで宗教のようだよな。
つまりエヴァンゲリオンという作品はインターネットという状況によって、これだけ受け入れられたってことなんだと思う。
インターネットによる分断と融合
そう考えてみるとインターネットってやつは、何とも言えない二面性を持つってことをあんたも感じるかい?
インターネットによって、様々な情報が玉石混交の状態でめぐることによって、俺たちは共通の話題というコミュニケーションツールを失った。
全ての娯楽は細分化され、極限のニッチを生み出し続けている。
俺たちがガキンチョのころに「みんなで楽しんでいることが前提とできる」コンテンツは今となってはエヴァンゲリオンかドラえもんくらいなものなのかもしれない。
それと同時に、インターネットは自分の感じたことをコンテンツとして共有できる場を提供してくれている。
な?インターネットは俺たちをバラバラにしつつ、俺たちをつなぎとめてくれているってわけだ。
そういう意味では、エヴァンゲリオンのように多くの人々を虜にするコンテンツってのは、ある意味奇跡的だと思うんだよな。
インターネットという知恵の実を食らってしまったヒトは「みんなで同じコンテンツを楽しむ場」というエデンの園を追い出された。
でも、インターネットという知恵の実は、エヴァンゲリオンというシンボルのもとに俺たちヒトをつなぎとめている。
な?奇跡みたいだろ?
その奇跡を具現化したもの。それがマーケティングってやつだったのかもしれない。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、俺たちの意思でこのマーケティングに乗っているんだろうか?
それとも、乗せられているんだろうか?
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