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こころと表現と感情と

あんたは自分の「こころ」について考えることがあるかい?

これは予想に過ぎないんだけれど、俺は家族や仕事仲間からそうとう「自分勝手」なやつだと思われていると思う。

なぜって?
俺の思い、考えをジャストミートで「言葉」にしちまうからだ。

そういう意味では俺はマイペースで自分勝手なんだろう。
まあ、それが良いも悪いも本質的にはないんだろうけれど、周りのヒトにとっては扱いにくいやつなんだろうなとか思ったりはする。

仕事仲間とかなら、ある意味対等な立場で接することが多いと思うから、相手も「こころのままに」接してくるので、そこはお互い様で済むケースも有ると思う。

お客様との間だとちっと話が変わってくるとは思うけどね。

今回はヒトとのやり取りでの「こころ」について考えてみる回だ。

ちっと自分の言葉について見直してみようぜ。


家族への言葉

改めて考え直してみると、俺の言葉って結構きつい。
なんて言っても逃げ場が無い物の言い方をすることが多い気がする。

俺としては「おかしい」と思ったら、そりゃもう息をするように自然に論理的に何がおかしいのかを考え始めちまう。

ポイントは俺がホンキで「相手のため」と思って話し始めるってことかもしれない。

なまじっか相手のことを考えて話が始まるので、相手に取ってみたら「改善」を要求されるようなもんだ。
実際に良くなれば良いってのもあるかもしれないけれど、言われた方からすれば「んなこた分かってんだよ」と言いたくなることも多いだろう。

でもなぁ。
思っちまうってのも現実なんだよなぁ。

家族が「間違っている」と思っていて、そのことを伝えないってのはなんか卑怯な気がしないか?

でもその卑怯さをもって話していかないとヒトは話を聞いてくれない。
結果として思ったことをオブラートに包みながら話すわけだけど、当然俺の
感じている問題の本質にはたどり着けない。

困ったもんだ。

逆に言われる事を考える

でね。
俺だって完璧超人じゃないからさ。
間違えることもいっぱいあるわけよ。

※キン肉マンの完璧超人は間違えないどころか、間違ったことしかしてない様に見えるのはおいておいてくれ

なので、当然家族から「お父さん、ダメだよ」と言われることはいっぱいある。

その都度、俺は何をしているか。
反論しているんだよな。
自己正当性なるよくわからない何かを表現するわけだ。

当然相手は不快な気分になる。

これ、どうするのが正解なんだろうな?

愛とこころ

で、最初の「こころのままに」という言葉に戻って考えてみる。

こころってのはものすごくシンプルに言っちまえば「感情」ってことだよな。

問題はそのこころってやつにどんな動機が伴っているのかってことかもしれない。

某金融会社のCMの「そこに愛はあるんか?」ってやつだ。
個人的には民間金融会社に愛なんてありっこないだろって思うけど。

で、家族への愛。
そりゃあるよ。
あるんだけれど、言葉の表現としてその愛を表現出来ているかってなると、話が違ってくる。

なぜか。
感情が愛だけじゃないからだ。

そりゃあ、ヒトだもんよ。
感情が一種類だけだったら、それはもはや機械だ。

こころを持つ「ヒト」と会話する

そういう様に考えていくと、自分にも相手にも誰にでもこころってのはあるって想像が出来る。

想像って書いたのはこころってのが客観的に観測することが難しいと思うからなんだよね。

自分自身のこころだって「あることを証明せよ」って問題があったら答えに窮する。
マネキンにこころが無いことを証明することって出来ないじゃん。
それと同じ意味でヒトにこころがあるって証明も無理ゲーなんだよな。

そう考えるとさ。
あるかどうかを証明することすら出来ないこころってやつを前提にしないと会話がうまくいかないってのは実に難しい話になってくる。

なので、俺たちヒトは物語を作り上げた。
「ヒトにはこころがある」という物語だ。

この物語さえあれば、「相手のことを考える」キッカケを作ることが出来る。

逆に「こころが無い」という物語があったらどうなるか。
コミュニケーションが成立しなくなると思うよな。

そう考えるとだ。
俺たちは「こころ」という何かがある前提を持っておかないと社会を成立させる事が出来ないってわけだ。

なあ、あんたはどう思う?

なら俺たちの「こころ」をどうやって表現していこうか。

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