人を信じるということ
あんたは日々のニュースってやつを毎日みているかい?
今日はとんでもないニュースが俺の低めのアンテナに引っかかってきた。
アメリカで19歳の妊婦さんが殺されてしまった。そして、殺されたあとにお腹を切り裂かれて胎児を取り出されたというんだ。
今回は、このニュースを考えてみようと思う。
なんだろう。このやるせない感じ。
容疑者の事情
この事件の容疑者は40代半ばの年齢で、20代半ばの娘さんがいる。そして、恋人がいる。
そして、この殺人事件は容疑者と娘さんで実行されてしまった。
この時点で様々ななぜ?が思い起こされる。
なぜ、容疑者は妊婦を殺してしまったのか?
なぜ、娘は母の殺人を一緒になってやってしまったのか?
なぜ、容疑者の恋人は恋人の凶行を止めることが出来なかったのか?
それらの疑問に対して、今の段階ではニュースは何も伝えてはくれていなかった。
ただ、一つ。「容疑者がオチョアロペスさんの子どもを自分の子どもとして育てるつもりだった」という警察の見解が出ているだけだ。
仮に子供が欲しかったというのが動機だとして、なぜ命を育みたいというスタート地点に殺人という全く逆の行為を伴わなければならなかったんだろう?
娘の共犯
一つの事実として、娘さんが共犯者にいるというのも非常に難しい。
この娘さんはどう言う思いで殺人に加担したんだろう?
自分の母親が子供を欲しがっている。そこまではまあ理解できることもあるかもしれない。
ただ、母親の容疑者は卵管結紮の手術を受けていたという事実がある。
いわゆる避妊手術だ。
避妊手術を受けていて、かつ子供がほしい。それはどういうことなのか?
そのあたりの報道はまだされていない。
もう一つの事実として、母親の容疑者は2017年に20歳の息子を亡くしている。
それは非常に悲しい出来事だったんだろう。
これらの事実の断片を組み合わせてみても、どんな気持ちで母親が殺害に至ってしまったのかは想像が難しい。
俺たち第三者にはわからないが、娘さんにはわかっていたということなんだろうか?
何もわからないまま、殺人事件の共犯者になることなんて出来るはずがない。娘さんは母親の何かを理解出来るという状態まではなっていたんだろうな。
恋人も一度は不穏な空気というやつに気がついて、凶行をやめるように警告したそうだ。
その時点では未遂に終わり、不穏な空気はエイプリルフールだと母親は恋人に告げたそうだ。
でも、実際にことが起きたときには、この恋人は事実の隠蔽にかかった。
恋人を失いたくなかったんだろうか?
それも、報道は伝えてはくれない。
人を信頼するということ
この事件の報道を見て俺が思ったのが「人を信じるというのがどれだけ難しいことなのか」ということだった。
事件の被害者と容疑者はfacebookでつながっていて、それをきっかけに容疑者の自宅を被害者は訪れている。
facebookでのつながりに限らず、人はどうやって人を信じたらいいんだろうな?
その人の意見やら、行動やらで判断するしかない。
それが基本だろう。
でも今回の事件の被害者は容疑者の意見やら行動やらを見ていなかったんだろうか?
見てはいたはずだ。なぜなら、facebookはそういう意見やら行動やら「しか」見えないんだから。
もしかしたら、人が人を信頼するっていうのはそういう意見やら行動やら以外の何かが大切なのかもしれない。
難しい話だ。SNS時代の俺たちはどうやって俺たち同士を信頼することができるんだろう?
あんたはどう思う?
俺たちは、どうやってつながればいいんだろう?
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