見出し画像

感情を刺激する発信

あんたは自分の発信に対して感情を向けられたことがあるかい?

昨日こんなnoteを書いたんだ。

西野亮廣さんに対する俺の期待度ゆえに映画えんとつ町のプペルに対して不満を持ってしまったってことを書いたnoteだ。

このnoteに対してそれなりに反応をもらったんだよ。

映画えんとつ町のプペルに対する不満に同感しているってヒトもいたし、期待度の高さはときに作品を貶めてしまうって意見も聞いた。

その中で俺のnoteがオモロくないぞって意見ももらえた。

今回は俺のnoteが感情を刺激したってことについて考えてみる回だ。

ヒトの感情がどうやって動くのか。
ちっと一緒に考えてみようぜ。

好きなものを否定されること

昨日のnoteは映画えんとつ町のプペルという作品を否定する内容だった。

この作品を楽しめていたヒトからするとたしかにオモロイ話じゃない。

それなのに、なんでこんなことを書いたのか?
多分、俺の中での西野亮廣さんへの期待度はまだまだこんなもんじゃないってことなんだと思う。

興行収入的に記録を打ち立てている鬼滅の刃や、時代を作り上げたって言っていいほど世の中に浸透しているエヴァンゲリオン。
更にはガンダム、ヤマト、コナン。
そう言う考える娯楽を提供してくれているコンテンツ。
それを西野亮廣さんは作れると本気で思っているんだよね。

それ故に映画えんとつ町のプペルはその期待値を満たすことはできていないって強烈に感じていたんだ。

あくまで西野亮廣さんの考えをシンプルに表現しただけ。
そこに観る側が考えを差し挟む娯楽にはなっていなかった。

見た結果、テーマを考えてみても「そうですよね~」にしかならないコンテンツ。
それは俺たちが望んでいるものじゃなかったって思うわけだ。

で、そう言うことを書いたんだが、当然といえば当然、それを不快に感じるヒトはいる。
そりゃそうだ。
なんつっても「好き」と思っているモノをどんな形であれ否定しているわけだからな。

オモロくないを表現するコンテンツはエンタメか?

で、オッサンはナイーブでセンシティブなので、否定的な言葉にすぐにショックを受けてしまう。

もぉ、肌がビリビリするくらいのショックを受けながら、考えるわけだ。

あれ?俺が「オモロくない」って表現がヒトの感情を刺激したってことか?ってさ。

何かで読んだんだけれども良い小説ってのはヒトの感情を刺激するものだってことらしい。
確かに印象に残っている小説やらマンガやらアニメやらはどれも俺の感情をベラボーに揺さぶってきた。

その感情への刺激を俺は表現できたってことか?

いや、違うな。

俺は映画えんとつ町のプペルというコンテンツにぶら下がってその刺激を下に過ぎない。
この感情への刺激はコンテンツありきでのものでしかない。

未だ俺は俺自身のコンテンツで誰かの強烈な負の感情すらわきおこせていないってことか。

感想というコンテンツ

いやいや、でもさ。
そんなん言ったら、何かに対する感想って発信そのものに価値がないってことか?
んなことないべ。

誰かが自分と同じコンテンツを見て、それに対する反応をしているのって結構俺は好きなんだよね。

こんなやつとかさ。

この動画は君の名はというコンテンツを好意的に捕らえているやつだけれど、否定的な表現でコンテンツへの感想を述べているものもある。

それを含めて、感想ってコンテンツはワリカシ好きなんだよ。

なんつーんだ?
そのヒトの感情がシンプルに表現されているゆえに、そのヒトの感情が自分の中に再現される感じ?

その意味で、コンテンツありきとは言え、俺のnoteに感情を表現してもらえたのはスゴイ感動的なんだ。

俺のnoteって理屈先行みたいなところがあるから、誰かの感情に届くことって少ないと思ってたんだ。
なので反応するにも理論武装してからじゃないとおっかないって思われているんだろうなぁって思ってた。

でもそうじゃなかった。
感情をぶつけてくれる反応をもらえた。

そのことをシンプルに感謝していこう。

なあ、あんたはどうだい?

このnoteであんたの感情は動いたかい?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?