東京オリンピック開会式のチグハグさの原因
あんたも東京オリンピック2020開会式に対する西野亮廣さんの意見のニュースを見たかい?
改めて読ませてもらって、「そうだよなぁ」って思ったんだよね。
本来、世の中のイベントを作り上げるヒトは「作り上げるもの」で評価されることは普通だと思う。
普通って言葉はあんまり使いたくないんだけれどもそれしか言葉が思いつかなかった。
ところが、今回のケースで行けばそのヒトがそれこそ何十年も前に学生時代にしていた行為で開会式直前になって引きずり降ろされるっていう尋常じゃない状況が出来上がっていた。
その状況を作り上げていたのが、事前に制作陣を公開していたってことだってのがこのニュースの骨子だよな。
今回はこの骨子について考えてみる回だ。
ちっとばかり俺の思考散歩に付き合ってくれよな。
出る杭は打たれるという文化
この制作陣を事前公開することがなんでダメなのか?
西野亮廣さんはこう言っている。
今の日本の流れを見たらわかるじゃないですか?日本人は、炎上させたらそのポジションから引きずり下ろせるっていう“成功体験”をしてしまったので。
出典:上記記事
つまり出る杭は打たれるって日本の文化とSNSによる1億総発信者になっているって状況があの開会式のチグハグさを作り上げてしまったってことなのかもね。
制作側からすれば、イベントを成功させるためにメチャクチャ頭を捻って集中したいところに、何十年も前の学生時代の過ちを掘り起こされて引きずり降ろされるじゃあ、そりゃ良いものはデキッコナイスだもんな。
そもそも出る杭は打たれるって文化はどこから来ているのか?
どうも調べてみると、江戸時代あたりからの言葉らしい。
稲作を中心で社会構成されていた士農工商の世界観では、最も多くの人口を占めていた農民を武士の次に高い階級としていた。
稲作では成果物であるお米の出来は自然環境に左右される要素が大きいので、成果物でヒトを判断するってのが難しい環境があったんだと思うんだ。
その中で、個性を発揮するっていうのは、農業全般で必要とされる「和」に悪い影響を与える事がある。
それ故に出る杭は打たれるって言葉が成立したんじゃないかって思うんだよね。
「和」が原因だとすると、出る杭は打たれるって言葉が日本にしかないってのもなんとなく納得がいくんだよなぁ。
「和」と「あら探し」
ところがSNSによる1億総発信者状態はこの「和」と非常に相性がよろしくない。
出る杭は打たれるの言葉に従って、1億人のパワーで出る杭を打ちまくるわけだからね。
小山田圭吾さんのケースなんて、本当に何十年も前のことで、さらにはいじめって行為が原因とされるなら、そのいじめの状況を看過した当時のクラスメイトや教師全員が「悪」ってことになっちまう。
いじめがしょうがないって言ってるんじゃないぜ?
完全に清廉潔白なヒトは存在し得ないって言っているんだ。
小山田圭吾さんのケースに対して「スクリーニングが甘い」だの「オリンピックの精神にふさわしくない」だのというコメントもあった。
完全に清廉潔白なヒトは存在するって本気で思っているってことなんだよな?
ってか完全に清廉潔白ってどういう状態なら認定されるんだ?
それこそ誰とも軋轢を産まず、合わないヒトとも事務的なコミュニケーションや建前を使ったコミュニケーションを続け、不満を漏らすこともなく、誰も攻撃せずに、誰からも攻撃されない。
その前提条件で言えば、さっき上げたコメントをネット上に書き込んでいる時点で清廉潔白ではなくなる。
ありえないじゃんか。そんなん。
なにか意見を言えば攻撃になるし、なにも意見を言わなければ無視って形でいじめになる。つまり攻撃だ。
唯一「関係を持たない」って方法があるかもしれないが、それはヒトとして自殺行為だ。
俺たちは清廉潔白になるカードは持っていないんだよ。
そう考えると、西野亮廣さんの言う事前に制作陣を公表しないってのは次善の策として良い方法なのかもしれない。
それでも制作陣を公開した意図ってのもあるとは思う。
制作陣の名前による権威付けってのはあると思うからね。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは「打たれても出続ける杭」を目指すしかないんだろうか?
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