鬼滅の刃が「炎上」した?

あんたも鬼滅の刃の第二期放送のニュースでワクワクしているかい?

俺もufotable社による美麗なアニメが世の中に出回ることはものすごい楽しみなことなんだけれども、ちょっと気になる見出しのニュースが俺の低めのアンテナに引っかかった。

なになに?炎上だって?

どうも読んでみると、本当に一部のヒトが遊郭という存在を子どもに見せるのはどうなんだって意見を持っていて、それをもって「炎上」って騒ぐヒトが出ているよってことらしい。

今回はこのニュースについて思うところを記録しておこうって回だ。

ちっと俺たちヒトがどんな風に物事を捉えているのか考えてみようぜ。

宇髄天元というキャラクターを振り返る

鬼滅の刃はすでに単行本では完結を迎えている作品なので、多少のネタバレを含みながらここからは書いていこうと思うんだ。

アニメ、映画だけで作品を楽しみたいってあんたは、今回は読まないでおいてくれよな。

まずはこのシリーズの主役と言っていい音柱・宇髄天元だよな。

まずはこの宇髄天元には妻が3人いる。

この時点で子どもに説明するのがなかなかの難易度だ。
っていうか大人にその意味を説明することも難しいかもしれない。

宇髄天元の妻3人はお互いを尊重しあっていて、かつ宇髄天元もそのあふれる愛情を深い懐で妻たちに注ぎ続けている。

その前提を踏まえた上で、妻たちは遊郭に潜入調査に出ている。

たしかにこの時点でフェミニストという肩書を持っているヒトは過剰反応しかねない設定だよな。

なんで妻が3人もいるんだ?
なんでその妻たちは夫である宇髄天元の仕事につきあわされているのか?
なんで遊郭なんて場所に妻を送り込んでおいて平気なんだ?ってさ。

ただ、原作マンガを読んでみると、この妻たちは実に自律的に遊郭への潜入捜査に携わっている。
まあ、3人共もとくノ一なので自律的に動けないとそもそも成立しないような世界に生きていたんだろうってことは想像に難くない。

原作では彼女たちは「幸せな存在」として一貫して描かれているんだよね。

つまり宇髄天元ってキャラクターは幸福なヒトを作り上げる事ができる人物として描かれているってわけだ。

遊郭という場所

今の感覚からすると遊郭って場所は、「可哀想な女性が客を取らされている場所」くらいの場所だってのが普通かもしれない。

でも花魁とか聞くと、必ずしもそう言うイメージは起きないってのもそうじゃないか?

華やかで、機知に富んでいる女性ってイメージがあったりすると思うんだよ。

実際、公娼制度が成立していた過去の日本においては、遊郭ってのは公に認められている場所だったわけで、その場所に対する白眼視なんてものはなかったなんて話も聞いたりする。

ただ、今の感覚で捉えるといかがわしい場所として子どもに見せる作品に登場させるのはいかがなものかって意見が出てくることも、まあ理解は出来るわな。

「炎上」の実態

じゃあ、実際どのくらいのヒトが遊郭という場所を鬼滅の刃で描き出すことに「いかがなものか」と言っているのか。

「遊郭編」は、そのような事態になっていたのか。SNS分析ツール「ソーシャルインサイト」で2月14日~19日の期間、「鬼滅」「遊郭」を含んだツイート約34万件を感情分析すると、ポジティブな反応が25.2%、中立が70.9%、ネガティブが3.8%だった
出典:上記ニュースサイト

3.8%。
この割合で「炎上」って俺たちは捉えているようだ。

どれだけネガティブなことに敏感なんだって話だよな。

逆に捉えるならポジティブな25.2%には俺たちは反応できないってことになるのかもしれない。

だってネガティブな反応の6倍もの反応が実際にはあるのに、ポジティブな反応そのものについては俺たちは特に反応していないんだもんな。

これはどういう意味なんだろう?

おそらく、俺たちはこの情報化社会の中で最も恐れているのが「失敗」だからじゃないだろうか?

至るところに「正解」の情報が存在している状況で「失敗」すること。
それは「失敗」することが自らの能力の無さってものを世の中に証明するような状況だとも言える。

そう、俺たちは自らの「失敗」を監視し続けているようなもんだよな。

でもさ。
それってなんか嫌じゃね?

「失敗」をしないってことは「挑戦」しないってこととほとんど同じ意味じゃんか。

鬼滅の刃の原作で宇髄天元が登場する遊郭編はすでに作品として成立している物語だ。
それでもそれを子ども向けのアニメにするってのは「挑戦」と言っていいようなものだと思う。

その「挑戦」に対して、俺たちは「炎上」するべきなんだろうか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは遊郭編という挑戦を受け入れることが出来ると思うかい?

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