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どん底の先にある物語

あんたにはどん底って状態で思い出すことってどんな事がある?

このどん底って状態ってのは実に難しい。
なにがって?
世の中を認識するための方便の一つだと思うからなんだよ。

何言ってんのかわからないってあんたに言われる前にちと具体化していってみるとだ。

どん底ってのは「体験したくない必要なもの」だと思うわけよ。

なんだそりゃって?
まあ、慌てなさんな。

今回はこのどん底って状態について考えてみる回だ。

ちっとこの状態がもたらしているものってやつを言葉にしてみようぜ。

ヒスイさんが紡いだ物語

今回、この「どん底」ってキーワードはヒスイさんのこの投稿からもらったんだ。

俺が無理くり始めてみた「#ミヨコそこに座んなさい」企画に乗っかってくれたんだよね。ありがたやありがたや。

しかし同じ企画に乗っかってくれたきゃらをさんも言ってたけれど、この企画乗っかる難易度がめちゃくちゃ高いのか?もしか。
今のところ100%産みの苦しみを感じてもらっているんだよな。
まあ、気軽にあんたも乗っかってみてくれよな。

で、ヒスイさんがひねり出してくれた作品。
これは「お父さん」の物語だね。

物語の構造としては「お父さんの声」が「届かない」と言うコンセプトがダブルミーニングで表現されている様に感じたんだよな。

一つは読ませてもらった後にシンプルに感じられる状況に対するギミック。
もう一つは「思いを伝える」ことの難しさと言う思いだ。

おそらくはこの「お父さん」はどん底の釜の底を踏み抜いてしまったんだろう。

その上で「お父さん」はどん底と言う状態を否定していない。
ただ、ヒトを見定めるためのステージだってことなんだろう。

何を見定めるのか。
それすなわち「信念」ってわけだ。

「信念」は「届く」のか

で、この「お父さん」。

彼は信念を持てたんだろうか?

このあたりが絶妙な感じでブレてるんだよな。

「一緒に」カレシを見定めようとしているくせに「成仏」したがっている。

成仏なんてしちまったら、ミヨコの笑顔も見ることは出来ないし、そもそもカレシを「一緒に」見定めることも出来ない。

ミヨコの笑顔に必要な相手だと言うことも分かっている。
そして、その笑顔って言うのが刹那的なものでしか無いことも理解している。

何しろ笑顔を見ちまったら「成仏」しちまうんだから。

この実に矛盾した人間像が「お父さん」という人物をまるで透かし彫りの様に表現していると思ったんだよ。

で、そんな「お父さん」の「信念」って何か。

シンプルに家族愛ってことになるのかもしれない。

理不尽な状況に「お父さん」が耐えられたのもこの家族愛あってのことだろう。

でもその「信念」って家族に届いていたんだろうか?

多分届いていない。
愛はいつだって一方通行だという現実がそこに横たえられている以上はね。

「届けようとする」価値

じゃあ、「お父さん」の家族愛は意味がないものなのか?

んなわけはない。

何?そんなこと言ったって「お父さん」は文字通り指一本動かせないわけだし、これからの状況に対して「お父さん」が直接アプローチすることは出来ない。

その状況で家族愛にどんな価値をもたせる事が出来るんだって?

それは「お父さん」が自分の抱えている家族愛を「届けようとした」と言う行動を誰かが見ると言う価値だ。

この場合の誰かはミヨコである必要はない。

他の家族でも、「お父さん」の仕事仲間でも、「お父さん」の行動を眺めたヒト全ての体験に価値が生まれるってことだ。

その価値に名前をつけるとしたらなんてなるか。

きっと「物語」だよな。

ヒトという生き物は多くの「物語」の中に共有できる価値を見出して、行動をしてくることで生き延びてきた。

宗教もそう。自治体や国もそう。貨幣だって「物語」だ。

実態を計測することは出来ないけれど、たしかにそこにあるということで影響力を持ち続けるもの。

きっとこの「お父さん」の「物語」もあんたに何らかの影響を及ぼすと思うんだ。
どん底の中で這い上がる物語。
どん底の釜の底を踏み抜いた男の物語。

そして、そのどん底で家族愛を手放さなかった男の物語。

なあ、あんたはどうする?

あんたが受けた「影響」でどんな「物語」を紡いでいこうか。

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