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常識という虚構

あんたは子どもの勉強を見てやるなんてことをしたりすることがあるかい?

我が家の息子は2023年度で小学校卒業ってなるわけなんだよね。
勉強を見てやる機会があったのでどのくらい世の中のことを眺めているんだろう?って見たんだけれど、想像以上に「常識」とされる知識を身に着けていないって印象だったんだよ。

福沢諭吉を知らないとか、何かの表を見てそこにわからない言葉があると引っかかって他のことを考えられなくなるとか、そう言う感じ。
まあ、小学生あるあるってやつなのかもしらんけれど、「おいおい、大丈夫か?」って感じたのもまた事実。

でも、同時にこんなことも感じたんだよ。

「常識」として身につけるべき情報の取捨選択ってやつの正当性はどうやって証明すれば良いんだってね。

今回は俺たちが抱えている「常識」と言う言葉について考えてみる回だ。

ちっと一回俺たちの常識を疑ってかかってみるかよ?


思考の並行展開

まず単純に知識量がある程度確保されている状態が俺たちにどんなメリットとデメリットを与えているのかって話から考えてみるか。

なんとなくのイメージだけれども、知識量なんてのは持っていればいるほどメリットがデカくなっていく感じがあるよな。

とある事柄を見たときに、その背景にあるであろう物語を一瞬で想像出来るようになるもんな。

ポイントはこの「一瞬で」ってことなのかも知らんね。

一つの情報を得ることで、同時並行的にいろんなヒトの都合ってのを想像することになるから、すぐさま誰かのことを100%否定するような感覚からは遠のいていく。
こいつは知識量を確保するメリットって言っても良いのかもしれない。

逆にデメリットはなにか?

きっとその並行的に情報を処理するためのリソースってのに上限があるから、本来であれば目的に対する手段として最短経路で進めたかもしれないところを、「寄り道」をする頻度が高くなるってことかね

確かに俺たちにとって時間は有限だからその戻ってこない時間と言うリソースの消費を加速させるって言う側面はあるかもしれない。

常識の価値

とは言えだ。

俺たちが社会で生き延びていくためには、この「常識」ってのは持っていることを自分にも相手にも求めているってのが現実としてあると思う。

ヒトって生き物が共同体と言う鎧でこの世界で起きている実に多くのことに対処してきたって歴史がある。
その共同体を維持するためにもこの「常識」と言う概念は避けて通れないものだと思うんだ。

似たような言葉に「正義と悪」なんてやつもある気がする。

そのいずれもが「そこにある」ことを疑いもせず、しかもその実態が完全に一致しているのかなんてことを確かめるすべもなく、ただそこに存在し続けている。

それが「常識」ってことなのかもしれない。

常識がヒトの間で共有されていないなんて状況では、何を持って「このヒトと協力していける」って確信を持っていいかわからなくなっちまうもんな。

常識を身につける手段

そう考えると、常識を身につけることってのは「寄り道」をするリスクをとってでも身につけておくことが社会で生き残るための前提ってことになってくる。

ところが、この常識ってのはさっきも書いた通り「ここからここまでが常識ですよ」みたいなものって無いのが実態だと思う。

あえて言うなら義務教育で教えられる範囲を常識とするなんて考え方もあるかもしれないけれど、ぶっちゃけあんたも義務教育で教えられたことなんて事細かに覚えちゃいないだろ?

このことは一つの事実をあぶり出すと思うんだよな。

つまり「俺たちはいつまで経っても常識を手に入れることは出来ない」ってことだ。

常識の範囲を明示的に定義出来ない以上は、どんな知識量を増やしていったとしても「常識マスター」にはなれっこ無いんだよな。

それでも俺たち大人は子どもたちに「常識」を身に着けさせないといけない。
だって生き延びるためには避けて通れないんだもんよ。

だとしたら俺たちが出来ることってなんだ?
たぶん、自分の持っている知識を取捨選択なく相手に伝え続けることくらいしか出来ないんじゃないか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこの常識と言う虚構とどうやって付き合っていくのが良いんだろうな?

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