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進撃の巨人という物語から感じる死生観

あんたは進撃の巨人を読み切ったかい?

俺的には近年稀に見る傑作作品だと思うんだよ。
あれだけの長期連載をしておきながら、伏線のほころびってのがほとんどない。

むしろ第一話から広げ続けてきた風呂敷は丁寧に最初からたたみ方を考えていたって構成になっている。

「駆逐してやる!」のセリフの対象が巨人から国、そして世界となっていくストーリーテリングは、この作品が諫山創さんの出世作として十二分にその存在感を世界に示してくれたと思う。

その中で、俺に課題を持ちかけてくる要素がある。

今回はその要素について考えてみる回だ。

ネタバレを含むから、一旦読み切ってから付き合ってくれよ。

未来を記憶するという悲劇

今回、俺が考えてみたいのは主人公のエレン・イェーガーが持つ進撃の巨人の能力のキモである「未来の記憶を見る」能力だ。

最初、俺が進撃の巨人を読み終わった時に思ったのが、この作品の世界では決定論的に時間軸が構成されているのかってことだった。

最終的にエレンはその「決定された未来」に向かって突き進むわけだけれども、その姿ってのはまさに未来という足かせに自由を奪われ続けるというものだったと思う。

ただ、今になってふと考える。
それはエレンの主体としての未来ってことなんだよな。

エレン・イェーガーの未来の伝え方

進撃の巨人の能力で見ることの出来る未来は、最終継承者であるエレンが過去の継承者に見せることを選んだ未来だけだ。
これはエレン本人も含まれる。

つまりエレンは過去の継承者に見せた未来を、過去の継承者の記憶を継承することで見てるわけだからね。

そこで思うのが、エレンはエレンとミカサが逃亡した世界線の未来を見ていたのか?って話だ。
この点は若干俺の思い込みも含んでいるから、正確な話じゃないけれど、見てなかったって思ったんだよ。

ありとあらゆる可能性のパターン別にエレンは未来を経験していたと思う。

その未来の中で進撃の巨人のラストの世界線をエレンは選択し、その世界の記憶のみを過去の継承者に伝えたんじゃないかってことなんだ。

このことは一つの想定を生み出す。

エレンは最後の最後の段階で伝える未来を決めたのか?ってことだ。

選択された未来

複数の世界線の未来が存在する中で、世界線を混在させた未来では整合性の取れた未来という形では伝わらないもんな。

そうだとすると、最後の最後のエレンの決定に対して、それまでのエレンを含む歴代の進撃の巨人継承者は全く自由ではなかったことになる。

しかもエレン・クルーガー以前の継承者には地ならしの記憶が伝えられていた描写も無い。

本当に、エレン・イェーガーはパズルを組み立てるがごとくに伝える未来を取捨選択していたことになる。

自らの自由を奪ってまでだ。

なんのためか?

出来うる未来の絶望の中で最良だとエレン・イェーガーが感じられた絶望を選択するためだ。

そこに「何が最良なのか」なんて話し合いは存在しない。
あくまでエレン・イェーガーという個人が8割の人類と自分の命を捧げることで数人の仲間を救いたいという願望で選択された未来ってことだ。

絶望しか見えない未来を考える

そんな絶望的な未来しか見えない人生ってのはエグいななんて思うわけだけれども、実のところ、この絶望ってのは等しくすべてのヒトに与えられている。

つまるところ、いつか死ぬわけだしね。

エレン・イェーガーのように具体的に未来が見えるわけじゃないけれど、事実としての寿命がある以上は、俺たちの活動ってのはいつかは終わってしまう。

実に絶望的だ。

でも、それでも。

「俺が生まれてきたからだ」

とうめきながら進んでいきたいという欲望に俺は駆られている。

死ぬ瞬間まで、俺は何かを考え、何かを行動し、何かを選択していくんだろう。

エレン・イェーガーのように未来の取捨選択を具体的に検討出来るわけじゃない。
その代わりに俺たちは未来を予測する。

その予測の結末が絶望だったとしても予測することを辞めはしないだろう。

なあ、あんたはどう思う?

進撃の巨人という物語から俺たちは何を学び取ったんだろうな?

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