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不満と俺たち

あんたも京都アニメーション放火事件の被告人である青葉容疑者に対して京都地方裁判所で死刑判決が出たって話を聞いたかい?

36人の命の重さというものについての判断ってことなのかな。

この事件に「なんでだよ」という怒りと悲しみとやるせなさとがまじりあったような何とも言えない感情を事件が起きた当時に感じたことを思い出す。

そんな感情を思い出しながらこのニュースを見ていたら、ある傍聴人のヒトがこんな感じのことを言っていたんだよな。

この事件は小さな不満を誰かと共有出来ていれば防げたんじゃないか。

不満という感情が俺たちをおかしくしてしまうかもしれないってことか?

今回は不満という感情について考えてみる回だ。

ちっと俺やあんたの中にある魔について考えてみようぜ。

俺たちの中にある不満

まあ、誰だってだよ。
生きている以上はなんかしらの不満ってのを抱えながら過ごしているわけじゃんか。
その不満と折り合いをつけながらごまかしながら生きているわけだ。

やれ仕事でどうしたこうした。
プライベートでどうしたこうした。
政治がわるいからどうしたこうした。
会社がわるいからどうしたこうした。

実に俺たちは俺たちの外にある何かに不満を抱えて過ごしているわけだ。

この不満ってやつを完全に払拭することは出来ないじゃん。
例えば、俺やあんたが使いきれないほどの資産を抱えていたとする。
その状況なら俺たちは不満を感じることなく過ごせるんだろうか?

答えは否だ。

なにもしなくても暮らしていけるとなったら、「なにもする必要がない」って状況に俺たちは不満を持つんだ。
好きなだけ遊んでいていい状況になったら、「何をやっても面白くない」って不満を漏らすんだ。

じゃあ、今という状態なら不満を持たないのか?

答えは否だ。

現実に今この瞬間も不満ってのはわき出てきてしまう。

やれ、仕事がきついだの。
やれ、家族とうまく会話できないだの。
やれ、からだの調子が悪いだの。

不満があるってこと

そう考えていくとさ。

俺たちはどうやっても、この不満ってやつと二人三脚で歩んでいかなきゃならないって運命に縛られているわけだ。

誰だっていろんなことを不満に思うってのは普通にあることだと思う。

もしかしたらその不満ってのが炎の如くに燃え上がってしまって、自分の手には負えないようなことも起きるのかもしれない。

それほど不満って感情は強い感情だと思うんだ。

でも、その不満という自分の中に息づく怪物に全員が支配されてしまっているのかって考えるとそうでもない。

実際、多くのヒトが不満を抱えながら犯罪に手をつけずに暮らしている。

どうやってそんなことが出来ているんだ?

感情と不満

たぶんだけれどさ。

俺たちは俺たちが抱えている不満に対して「蓋をして」生きているんだと思うんだよな。
感じている不満のことを考えていても前に進めないからさ。
「そういうもんだ」とか。
「しかたないよな」とか。
そんな言葉で自分をだましだまし生きているってのが実態だと思う。

で、たぶんそのやり方はそんなに間違っているもんでもないと思う。

不満を持った状況の原因を他人に押し付けることもあるだろう。
不満の原因を自分のせいだと言って自暴自棄になりたくなることもあるだろう。

いろんなやり方でなんとかみんな世の中と自分の感情に折り合いをつけているじゃん。

でも青葉被告は折り合いをつけることが出来なかった。

自分の責任と他人の責任の両方があるってことを頭でわかることが出来る瞬間はあったのかもしれないけれど、その理解をすることを感情が許さなかった。

これさ。
俺たちの誰にでも起きちまうことだと思わないか?

極端な行動に出るか出ないかだけで、俺たちは俺たちの感情から自由になることなんて本質的に出来ないんだから。

ならどうするのか。

俺たちは、俺たちの周りに「叱ってくれるヒト」が必要ってことなんじゃないか?

確かに叱られたことで感情が爆発しちまうこともあると思う。
でもさ、オッサンになればなるほど、俺を叱ってくれるヒトが居なくなったってのは厳然とした事実なんだ。

そりゃそうだ。
オッサンを叱ることほどめんどくさいことなんてないもんな。

なあ、あんたはどう思う?

それでも俺たちを叱ってくれるヒトは失うことのできないヒトだって思えるかい?

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