コメントに求めるもの
あんたは暴言的なコメントをもらうことってあるかい?
俺みたいな弱小noteオッサンはそもそもコメントが集まらんので、暴言的なコメントを残されたって記憶はないんだよな。
もちろん、自分と意見が違うよってコメントをもらうことは普通にある気がするけれど、全然攻撃的な感じを受けた記憶はない。
むしろそう言う意見が違う時の場合ほど、丁寧にきっちりとコメントしてくれている感じすらする。
まあ、オッサンに絡むのはめんどくせぇだろうからなぁ。
で、なんでそんな事考え始めたんだって言うと、ももまろさんがいつも通り刺激的な記事を上げてくれたんだよ。
実に俺の琴線に触れたのがこのフレーズ。
おおう、こいつはヘビーだ。
今回は情報を解釈するってことについて考えてみる回だ。
ちっと、俺たちの情報との向き合い方ってやつを考えてみようぜ。
行間を読むという行為
まず、大前提として、俺の記事については大いにあんたの解釈を挟んでくれて良い。
ってか、それが半分目的ですらある。
Twitterみたいな限られた文章量で表現する制約がないので、あんたは思う存分あんたの意見をコメント欄でも引用でもしてくれたほうが嬉しい。
例えば、俺が「小学生が小学校の校庭で自由に遊べないのは歪だ!」って書いたとする。
まあ、実際子どもが小学校の校庭を自由に使えないのはいかにも人間関係の構築に障害をもたらすような気がするしね。
それに対して、「小学校の教員の立場も考えろ!何か起きたときに責任だけは小学校の教員に行くんだぞ!」って意見は普通にあっていいと思う。
ってか、そこ小学校の教員に責任求める親の方になんか歪がないか?とは思うけれどね。
で、たぶんだけれども、日本語って言語の特性上、実に多くの情報が省かれているって現実があると思うんだよ。
だってそうだろ?英語なんて主語を省いたらそれだけで言葉として成立しなくなっちまう。
ところが日本語ってのは「例のアレ、ナニしといたんで」で通じちゃうじゃん。
本質的に日本語って言語を使う以上は「行間を読む」って行為が暗黙のルールなんだよな。
読み手と書き手のコミュニケーション
そんな風に行間を読むことを大前提としている言語を使っている俺たちは、当然だけれども色んな誤解ってのが生じるわけだ。
実際、俺もももまろさんの書いてくれていることを正確に理解しているって断言できるほど、経験も能力も備わっていないと思う。
ただ、なんとなく読ませてもらったときに思ったんだよ。
自分が把握したのは「行間」か?
それとも書いてある「文章」か?
この2つを意識していると、結構色んなものの解像度が上がっていく気がしたんだよね。
さっきも書いた通り行間を読むって行為を完全に排除するのは日本語って言語の特性上、結構厳しいものがある。
かと言って、ももまろさんの言う通り行間を読むって行為が不必要な争いを勃発させるってのも確かにあると思う。
これってさ。
もう、コミュニケーションってどうすんだべか?って話じゃん。
書き手と読み手のさ。
伝え方を考える
って、ここまで書いておいて、この記事そのものがももまろさんの記事を激しく行間を読んで書いているってことなんだよな。
まあ、ここまで来たら俺の思いを載せていくしかないかな。
ももまろさんがこんなふうに書いてくれている。
ここ、この記事のキモだと思う。
読んだ行間に感情を乗せる前にまず考えてみようぜってことでしょ?
攻撃的なコメント。
愛情を込めたコメント。
それが刺激として強すぎることがあるよねってことなんだよね?
それは完全に同意。
その上で、コメントを返すときに何を乗っければ良いのか?
………やべぇな。
答えが出ない。
書いた通りの文章を要約したコメントが俺は欲しいのか?
いや、それじゃない感が結構ある。
俺を真っ向から潰しに来るようなコメントが欲しいのか?
いや、オッサンは弱っちいからもちっと優しくしてって思っちまう。
そうか、優しさか。
優しい上で、自分の意見を言って欲しいんだな。俺は。
結構な無理ゲーだな。
なあ、あんたはどうだい?
あんたの発信への反応に何を求めている?
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?