見出し画像

べぇくんがくれた物語

あんたも誰かと自分を比べることってあるかい?

ヒトという生き物が他人と協力するってことで生き残ってきたって事実を考えると、誰かの役に立つってことはヒトという生き物が抱える本質的な課題ってことになるんだと思うんだよね。

そしてポイントなのが、ヒトという生き物は最初から何かをなすことができるような能力を持ち合わせない状態から始まるってことなんじゃないかな。

今回は不完全な自分と向き合うってことについて考えてみる回だ。

ちっと俺の人生観に付き合ってくれよな。

べぇくんってヒトを考える

今回のnoteを書くきっかけをくれたのがこのnoteなんだよね。

べぇくんは西野亮廣エンタメ研究所に関わっているヒトなら誰でも知っている株式会社NISHINOのインターン生の一人だ。

結構な頻度で西野亮廣さんからいじられている印象が深い人物だ。

今回、このべぇくんのnoteを読ませてもらって感じたことは「自分を否定しながら立ち止まらない強さ」だった。

べぇくんという人物は周囲にえげつないくらいの才能をもったヒトがいる環境に身をおいている。
しかも同世代でだ。

同期のまーちゃんはものすごい頭がよい。
東大生って肩書もその一つの要素かもしれないけれども、なにしろ表現力がえげつない。

長年オッサンをしているけれども、表現についてこんだけ考えまくっている学生は見たことがないってレベルだと思う。

先輩のせとちゅんは更にえげつない。

彼の行動を眺めていると思い浮かぶ言葉がある。
「コミュ力おばけ」だ。

彼の巻き込み力は半端ない。
そして、その活動範囲に「自分のできること」って言う足かせをはめない。

結果として自分自身すら想像できなかったことをやってのけている。

そんな人物が周りにいたら「俺なんて」って萎縮してしまうと思うんだよ。マジで。

ところが今回のこのnoteを読んで俺はちょっと感動したんだ。

べぇくんは「俺なんて」って思いながら「歩き続ける」ことを宣言しているんだよ。

この劣等感を感じながら前に進み続けるしかないって心境に俺は至れているんだろうか?

自分の価値

オッサンになると、「自分にはこんな価値がありますよ~」ってやつを軸においておかないと社会の中で生きていくことが出来ない。

なにしろ、経験を積んでいる前提で周りは自分を見るわけだもんね。

その事を自分自身で自覚しているもんだから、自分を「求められている能力を持っている」って演出をし始める。
求められている能力を自分が持っているかどうかは関係ない。
求められていることに答えないと生きていけないって思っているからね。

そうなると、途端に生きるのが辛くなる。
なにしろ「自分を肥大化する」っていう嘘をつき続ける生き方になるんだもんな。

それでもオッサンはその生き方から逃れることが出来ないんだよな。

べぇくんが見せてくれる責務を全うする姿

そんな風にオッサンが守りに入った生き方を続けている中で、べぇくんは違った。

自分の意識の中で自分が能力的に劣っているということを宣言した上で、やるべきことが何かってことを真摯に考え続けている。

多分だけれども、べぇくんはせとちゃんやまーちゃんに比べて体力では抜きん出ているんじゃないかと思う。
本人もそこは自覚しているんだと思うんだよな。

なので、比較的体力に物を言わせるような挑戦をしている印象がある。

今回は縄跳びってことらしい。

ここで売れたコーヒーの数×100回の縄跳びをするってことらしい。

普通に考えると「コーヒーを買うこと」と「売り主が縄跳びをする」ことには全く因果関係がない。
むしろ売り主が縄跳びをすることをシンプルに考えると誰が得するのかわからない。

でも、そのチャレンジで俺たちが感じるものって確実にあるんだと思う。

俺たちは何を感じているんだろうな?

きっとそれは物語だ。

べぇくんというフィクションみたいな存在だ。

ヒトという生き物は物語でつながって大きな力を得てきた。

べぇくんという物語も俺たちに大きな力を授けてくれるってことなのかもしれないな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちも俺たちの物語で誰かに力を与えることができると思うかい?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?