仲間として働く:説明の力と論破の限界
あんたは「日本人が世界に認められることが大切だ」って思っていたりするかい?
実際、グローバルな環境になって外国籍のヒトと仕事をする機会は増えているってのが現実としてあると思うんだ。
普通に上司の名前が「ジョン」だったりするわけだしね。
でだ。普通に文化圏のちがうヒトが上司になったりするのがこれからは当たり前の世界観となって来るってのは想像に難くない。
実際、外国籍の上司が嫌う仕事のやり方として「結論を先延ばしにする」ってのがあると言うことをYOKOさんが上の記事で教えてくれているわけよ。
たしかにそうかも知れないなぁと思いながらも、そもそも「先延ばし」にする理由ってのがあるんじゃね?って思ったりもするわけだ。
YOKOさんの記事を読んだ感想になるんだけれど、つまりは「衝突」を避けるってのを日本の職場では何よりも重んじているってのがある気がしたんだよね。
「衝突」が起きちまうと、そもそもディベートみたいな訓練を積んできていないオッサン世代は意見の否定じゃなくて「人格」の否定を始めちまう。
そうなってきちまうと、仕事どころのはなしじゃなくなるってのがあると思うんだ。
これは俺の何となくのイメージに過ぎないんだけれど、アメリカだとかイギリスだとかで生徒同士の衝突が起きたとしても、教師が積極的に介入してことを収めるってシーンが思いつかないんだよ。
なんとなく、当人たちで解決しなさいよって感じ。
俺たちがガキンチョの頃ってさ「喧嘩両成敗」みたいなのって普通にあったと思うんだよ。
そもそも「衝突」を起こすなって教育を受けてきたと思うんだよな。
今回は違う文化圏で育ったヒトと仕事をするってことの意味について考えてみる回だ。
ちっと、俺たちの世界観ってやつを眺め直してみようぜ
「説得」するという文化
いや、ぶっちゃけね。
ガキンチョの頃なんてケンカなんて普通にやってたじゃん。
しかも、今みたいな言葉による暴力じゃなくて、ホントに物理的な暴力を使ってケンカしてた気がするんだ。
いや、俺たちがガキンチョの頃だって物理的暴力は肯定されてはいなかった。
ただ、物理的な暴力をお互いに振るっているって事実があるから、教師の立場だと「喧嘩両成敗」っていう手段を取らざるを得なかったって観点がある気がするんだよね。
まあ、そういう状況で先生に当事者同士で話し合いをさせるんじゃなくて、先生と言う大人の権力を持って制裁を加えると言うのが教育だったと思うんだよ。
ところが、そんなことがいつまでも通用する世界観ではないのはあんたも肌で感じるだろ?
もっと陰湿に巧妙に相手を陥れるってのが大人のケンカってやつだもんな。
なので、大人のケンカでは「説得力」ってのをもたせる必要がある。
つまり、相手の言い分をぐうの音も出ないまでに論破する必要が出てくるわけだ。
論破と言うものへの嫌悪感
でもね。
俺個人の感覚としてだ。
誰かが誰かを論破する光景ってのはメチャクチャ不快感を伴うってのがあるわけよ。
これは論破している側の理屈がどれだけ正当性があったとしても拭いきれない感情なんだよな。
要するに、その論破しているヒトのことをキライになっちまうんだ。
これは、いただけない。
だって、俺は誰のこともキライになりたくないもん。
だから俺はそういうヒトに「論破」じゃなくて「説明」をしてくんないかなって結構な頻度で思っているんだよね。
いや、例えばね。
日本の消費税の逆進性なんて話があるじゃん。
要するに貧乏人の負担がデカくなるからくりだって話ね。
俺個人としては、消費税についてはアメリカとかの売上税と違って非常に重い課題を抱えた税金だとは思っているわけよ。
仕入れのときにかかった消費税を売上時の消費税から引くことが出来るとか、俺の知る限りじゃ日本しかやってない。
でもね。日本の消費税を必要なものだって言うヒトはいるわけよ。
経団連のヒトたちとかね。
でも、経団連のヒトたちから納得行く「説明」を受けた記憶は無いんだ。
からくりとして輸出企業にとって消費税があったほうが都合がいいってのは聞いているんだけれどさ、それって一部の企業への利益誘導以外の何物でもないじゃんか。
でも「説明」が無いもんだから「自分たちが特をするためだけに制度を維持しようとしている」なんて思っちまう。
これじゃあ議論にはならんよね。
だからさ。
これからのグローバル化が進む世界観では特に「説明」の価値が高まると思うんだよね。
だって、筋が通らない話ならケンカにすらならないからさ。
なあ、あんたはどう思う?
これからの世界観で俺たちはどうやってケンカしていくんだろうな?
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