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幸せへの扉

あんたは「幸せってなんだっけ」とか明石家さんまさんのポン酢しょうゆCMみたいなことを考えたりするかい?

いや、そんなん若者だけがもつことが出来る特権的な疑問だろって?

俺はそんなに達観できないんだよなぁ。
なんかさ、俺の感覚だとヒトって「不幸」を定義することは比較的簡単に出来るけれど、「幸せ」ってのをすんなり定義出来るヒトってレアだと思うんだよな。

そんなことを漠然と思っていたらこんな記事を読むことが出来たんだ。

玲音さんはこの記事の中で「ヒトが得することを不幸に感じる」ってことについて考えてくれている。

例としては「お子様向けのサービスをお得に受けられるなんてズルい」なんて感覚を持つヒトがいるよねってことを書いてくれている。

俺が一番響いたのはこんな言葉を書いてくれていたことなんだ。

自分ひとりでも美味しいものを食べたり、楽しいことをすれば幸せだという人もいるかもしれません。
しかし、それは自己満足の確認であり、快楽を感じたということに過ぎず、それを「幸福」という言葉にすり替えているのです。

出展:玲音さんのnote

今回は幸せって言葉について考える回だ。

俺たちは今、どこに向かって歩いているのか考えてみようぜ。


「快楽」と「幸福」

まずは言葉の整理から始めてみるか。

「快楽」と「幸福」って何が違うんだろう?

「快楽」ってのは気持ちいいことってこと。
「幸福」ってのは満たされているってこと。

そんな感じかね。

気持ちいいなら満たされるじゃん。
もしかしたら、あんたはそう言うかもしれないな。

なんとなくのイメージだけれど、「快楽」の方が「幸福」よりも時間が短い感じがするよな。
なんかスポーツしてオモロイとか、アニメ見てオモロイとかって、その時限定で終わるじゃん。
もちろんオモロイんだから繰り返しその行動をとり続けて同じ「快楽」を手に入れようとするんだけれどさ。

対して、幸福ってのはもっとうっすらとそこにあり続ける感覚なような気がするんだよな。
でもうっすらだから、意識していないと見逃しちまう感覚。

「幸福」のために必要なもの

じゃあ、「快楽」と「幸福」のどっちが欲しい?って聞かれたらだよ。

結構な比率で「幸福」って答えるヒトが多いんじゃないかって思うんだよ。

そんなうっすらしたものでも、満たされているという感覚を長く感じていたい。
そういう考え方ね。
あんたもそうかい?

でも「快楽」を求めるってこともやめたりはしない。
だって「幸福」の入り口になることもあるからな。

あんたも「週末にうまいもの食いに行くぜ!」って思いながら仕事をこなしているだろ?
場合によっては、そういうご褒美が先にあるってだけで「幸せ」を感じることだってあるよな。

そう考えるとさ。
「幸せ」になるために必要なものってのがちっと見えてくるよな。

つまり「意志」だ。

言い換えれば「幸せだと思い込む工夫」だ。

「幸せ」のきっかけ

たとえば玲音さんの記事でもさ。

そばにいる誰かが「幸せ」だって同じ状態でもさ。
「ズルい」って感じるヒトもいれば「よかったね」ってホッコリするヒトもいるってことを書いてくれていると思うんだよ。

内在性の嫌悪感を他人のせいにしているだけ

玲音さんのnote

こんな風に書いてくれている。

そうなんだよな。
感覚ってのは「快楽」だろうが「幸せ」だろうが本質的には自分の中にあるものなんだよな。

しかもそのコントロールは実質的に出来ない。
「そう感じる」ことは自分ではコントロール出来ないからね。

でもね。
最初に「そう感じ」た後にさ。
「こうも考えられないか?」って考えることは出来るんじゃないか?

何でもないようなことが幸せだったと思う。
そういうことなんだろうな。

俺たちは「幸せ」って宝探しを日常の中でしていかないとそいつを手に入れられないってことなのかもしれないな。

なあ、あんたはどう思う?

「幸せ」ってどこにありそうだい?

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