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日常と物語

あんたは自分の日常ってやつを発信していたりするかい?

何を突然ってなるやつだけれど、こんな記事を読ませてもらったんだよ。

ひーさんのこの記事で「日常を発信するべきじゃない。noteでは」って意見があるってことを知ったんだよね。

ひーさん自身は日常を発信しても良いよねってスタンスだった。
ここは俺も全く同意見。

そこでハタと思ったんだよ。

うん?俺の発信って俺の日常か?

俺の発信は俺の日常だ。
そう言い切るにはちと書いているジャンルがバラけすぎている。
俺の発信は俺の日常じゃない。
そう言い切るにはちと俺の経験と紐づいている発信も多い。

今回は「日常の発信」について考えてみる回だ。

ちっと俺たちの日常の価値について考えてみようぜ。

他のヒトの日常発信を眺める

じゃあ実際にどんな日常についての発信があるんだろう?

ちと日常ってキーワードで漁ってみたらこんな記事が見つかった。

あのね。
有り体に言うけれど、控えめに言って最高のオモロイだと思ったんだよ。

味噌汁を作ると言う行為に計量と言う実に理にかなった方法を無心に実施する夫さん。
で、実際に最適解にたどり着くと、無心に同じ行動を続ける夫さん。

なんかさ。
めちゃくちゃ感動させてもらったんだよな。

この夫さんが今までどんな人生を歩んできたのか。
その結果としてのこの行動。

これ、一つの物語だよな。

俺も、この境地にたどり着けるのか?
そんな風に読ませてもらって感じたんだよ。

俺の日常は物語を感じさせるか

俺の場合、最初に書いた通り日常を表現しているともしていないとも言い切れないわけだ。

意図して自分の日常を書いたって記憶も薄い。

じゃあ、意図して俺の日常を書くとしたら何を書くんだろう?

ちょっと傍らにおいてあるものが目についたから、そいつについて書いてみるか。

我が家の息子は小学6年生。
いくつかの習い事をこなしているんだけれど、その一つにくもんがある。

算数・数学だけだけれどね。

で、くもんってのは学年とか関係なくドンドコ上の学年の問題を解くようなやり方なんだよな。
今、息子が取り組んでいるのは中学2年生くらいの内容なのかな?

で、この間取り組んでいたのが懐かしの三平方の定理だったんだ。

それを眺めた俺は、この三平方の定理って実に美しいよなって話をしたんだよね。

あんたもそう思わないかい?
直角三角形と言う概念であり、現実世界に存在しているものがさ。
数式に則って存在し続けているって事実。

しかもあんなにシンプルなC²=A²+B²なんて数式で表されている。

なんつーの?
神様は居るんだなって思わせる感じ?

これを美しいと言わずして、何を美しいって言うんだ。

まあ息子はポカーンだったけれどね。

で、その話を息子がくもんで先生にしたらしいんだよ。
そしたら、くもんの問題を先生が俺にプレゼントしてくれたんだよね。

問題に取り組んでみたら、まあ俺の数学能力が落ちまくっている。
因数分解すらスラっと解けない。

いやはや歳は取りたくないもんだ。

まあ、日常でどんだけ数学使ってないんだって話だけれどね。

で、その衰えた数学能力でくもんの問題を解いてみる。

……確かにちょっとオモロイ。
これ俺が中学のときにやってた問題なのか。
普段使っていない脳みそを使っていく感じ。

あ、いけね。これだと俺の非日常の話だな。
まあ、でもこれが俺の日常のいち風景なわけだ。

物語を感じさせる日常

俺の日常を書いてみたけれど、あんたはそこに物語を感じたかい?

いや、ぶっちゃけ自分では全くわからんのだけれども、俺の日常を切り取った表現はしたつもりなんだ。

俺にとってさ。
物語ってものすごく大切なんだよな。

物語があることによって、「共感」だとか「協力」だとかが生まれる。

物語ってのは必ずしも空想の世界を表現するものじゃないじゃん。

「誰かが頑張っている」

そのこと一つ感じるだけで物語は生まれる。

その物語に触れることで俺とあんたは協力出来るかもしれない。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちの発信によって作り上げられる物語はなにかの力を生み出すと思うかい?

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