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価値の共有

あんたにもスキなことってあるかい?

フォローさせてもらっとる鈴代さんがこんなマンガ描いてくれていたんだ。

俺自身は猫アレルギー(物理的に)なんで、猫は飼えないんだけれど猫そのものは可愛いとは思うわけだ。

道端で猫を見かけると「よう、最近どうだい?」とか心で話しかける感じ。

一度、猫カフェ的なものに誘われて行ったときは悲惨な感じになったんだよな。目も鼻もぐちゃぐちゃになる感じ。
こればっかしは体質改善する手段が無いのでどうしようも無いんだよな。

まあ、俺の体質の話はどうでもいいとして、鈴代さんのマンガだ。
2匹の猫が登場して、禁止されている「テーブルの上に乗る」という禁忌を奪い合うという物語だ。
※俺の表現があれなので、本編見てね

で、鈴代さんのマンガを読ませてもらってふと思った。

この猫さん。
なんでテーブルに乗りたいって思うんだろう?って。

今回は俺たちの価値観ってやつについて考えてみる回だ。

ちっと自分の価値観の源泉ってやつを考えてみようぜ。

テーブルの上という価値

鈴代さんの家の猫さんたちはテーブルの上になんかしらの価値を見出しているんだよな。

その価値ってのが何なのかを想像してみるわけだ。

まず、平らな開けた場所ってのがあるのかもしれない。
でもそれなら床でも良くね?って思ったりもする。

でもあれか。床はヒトが行き交ったりするからゆっくりしてられないってのがあるのかもしれないな。
じゃあ、棚の上とかは?
それはそれで物がいっぱい置いてあったりして自分の居場所を確保しにくいって感覚があるかも知らん。
洗濯機の上とかは?
何か定期的にブルブル震える場所なんて行ってられるかい!って感じか。
ベランダとか……?
いやだから家の中に居たいねん!

おお、なるほど。
猫の立場に立ってみるとテーブルの上ってのは最適解なのかも知らん。

で、その最適解。
猫さんたちはどうやって見つけることが出来たんだ?

価値という認識

たぶんだけれども、このテーブルの上と言う価値を最初に見つけた猫さんがいたんだと思うんだ。
で、その価値をもう一匹の猫さんが観察することによって、価値観が伝播していったってことなんだよな。

これさ。
なにげに深くね?

なにがって?
だって、俺たちヒトでもさ。何を持って価値観を持っているのかって話ならないか?

価値観ってのは実態を持ってはいない。

例えばマ・クベはあの壺を良いものだと言った。

でも俺にはハクション大魔王の壺みたいにしか見えなかった。
でも、良いものだという判断をするヒトもいたんだろう。
少なくともマ・クベとその壺を作ったヒトは実態を伴わない感覚である価値観を共有したわけだ。

ただ、その感覚は壺と言う物体を通じって共感されたんだよな。

つまり価値観ってのは、「何か」を通じて共有されて意味を持つってことなんだと思うんだよ。
その何かってのが物理的に存在するものだったり、観念的な何かだったりするんだけれどさ。

誰かが価値を見出すものを欲しがる感情

でね?
俺たちが感じている価値ってのは、それほど絶対的なもんじゃないと感じるわけよ。

「みんな持ってるもん!」って小学生が言うあれだ。
オッサンになってもその価値判断ってのは本質的には変わらない。そう思わないか?

究極、株取引や為替取引、ありとあらゆる金融商品だってそうだろ?
ぶっちゃけ、そんなもんは直接腹を満たしてくれることもないんだけれど、それでも「みんなが価値を見出している」ってことでその存在に意味をもたらしている。

結局、俺たちヒトにとっていちばん大事なものって「みんな」なんだよな。

そのみんなとの接着剤として貨幣だとか宗教だとか国だとかの価値観ってのが必要になってくる。
そういうからくりなわけだ。

そして、鈴代さんの家の猫さんたちはテーブルの上と言う価値観を共有した。
価値観を共有した上で協力すると言うのはヒトの特殊能力なので、奪い合いしか猫さんには出来ない。

でもその特殊能力を持っているヒトと言う生き物でも「俺ら」と「あいつら」に色分けをして戦争を続けているのが現実だ。
歴史上も今も飽きることなく俺たちは争い続けている。

鈴代さんのマンガを読んで、そんな事を感じたんだよな。

なあ、あんたはどう思う?

価値観を共有した上で、その価値をどう扱っていけばいいと思う?

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