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「天気の子」が気づかせる不自由さとそれに対する挑戦

「天気の子」あんたはもう見たかい?

新海誠監督と言えば「君の名は。」で有名だよな。
その新海誠監督の「君の名は。」の次に世に問う作品にあたるのが「天気の子」だ。

ものすごい話題になっているから、あんたも気にはなっているだろ?

今回は、この「天気の子」のあらすじには一切触れずに、俺の中に残ったものを拾い上げていく回だ。

まあ、気になったようなら見に行ってみてくれよな。

「天気の子」に求められるものと「君の名は」の次回作に求められるもの

「君の名は。」の商業的大成功をあんたも知っているよな。

俺なんか「君の名は。」はオーディオブックから動画配信サービスからの買い切りやら、もぉ色々オッサンの力(=お金)を投入している。

とかいいながら映画は見に行っていないんだよな。

オーディオブックの出来があんまり良かったもので、Amazon PRIME経由で動画配信まで買っちまったってスンポーだ。

いや、このオーディオブックは一人のナレーターさんが聞かせてくれるんだが、見事にキャラクターを声で表現仕分けている。
純粋にテクニックを堪能するだけでも、価値ありの逸品だったんだよね。

で、この「君の名は。」がそんなふうに商業的に成功したってことは、周りの大人達に一つの義務を生じさせる。

新海誠監督の次回作は絶対に商業的成功を勝ち得なければいけないってことだ。

当然ながらそのプレッシャーってのは想像に難くないが、俺が「天気の子」を見て思ったのが「商業的に守りに行っていない」ってことだった。

「君の名は。」で成功した勝ちパターンを捨てているんだ。

その勝ちパターンとはファンタジーを現代に持ち込むというものだ。

「入れ替わってる~!」で有名なファンタジーな設定を現代の若者に持ち込んで、そこにある若者たちの感性を全面に押し出す。

「君の名は。」が世に受け入れられたのは、若者という誰しもが経験した状態をファンタジーという味付けをしたからだってのが俺の分析だ。

入れ替わるってファンタジーはなくっても、「自分の大切に思っている人を思い続けること」っていう共通項が俺たちを惹きつけた作品

それが「君の名は。」だったと思うんだよね。

そんな「君の名は。」の次回作に大人たちが求めるもの。
それは当然だけれども、「君の名は。」で受け入れられた「誰しもがもつ共通項」だったはずだ。

だけれども「天気の子」で描き出されているのは「君の名は。」で用いられていた青春をファンタジーによる味付けする手法ではなく、青春を現実で彩るという手法だった

周りの大人達は「天気の子」に「君の名は。」の成功要素をできるだけ多く入れたかったはずだ。
そうじゃなきゃ、それに関わるすべての人達の幸せも達成感も得ることができなくなる恐れがあるんだからな。

それでも、新海誠監督は選んだ。

「天気の子」の手段を。

「天気の子」で表現される足かせ

「天気の子」が現実を表現手段として選択する以上、避けて通れないのが世界観の表現だ。

「天気の子」の舞台は東京。新宿。

俺は学生時代を新宿で過ごしたし、今もなんやかんやで新宿には行っているので、その風景ってのは俺の中で故郷の風景以上に俺の中に確かにあるものになっている。

新宿の大ガード下や西口の地下道。東京モード学園のビル。歌舞伎町の雑居ビル。

その全てが俺の中で日常の風景としてしっかりと存在している。

「天気の子」では、その新宿がものすごく緻密にしっかりと描き出されている。

その出来については、あんたが映画館で確かめてみてもらいたいが、その映像を見た俺は、映画を見ながらその場にいるような、極端な話そこにある香りを感じるような錯覚を覚えるほどだった。

その緻密な世界表現は何のためのものなのか?

聖地巡礼という文化に迎合したとあんたは思うかもしれないが、俺はちっとだけ違う感覚をもった。

この緻密な表現は「天気の子」の現実で青春を際立たせるという手段の一環だったんだと思う。

緻密に描かれたその世界は、俺たちの不自由さを象徴しているようだったんだ。

この世の中は若者の感情のままに生きることが出来るほど柔軟性に富んではいない。
何をするにも法律だとか、しがらみだとか、様々なものがまとわりついてくる。

その不自由さが返って若者の感性を際立たせる。

こんなにも不自由なこの世界の中で自分の感性に何の迷いもなく自分を投じていく姿。

もしかしたら、新海誠監督は「俺たちは俺たち自身を自由にする責任がある」って言いたかったのかもしれないな。

さあ、あんたはどうする?

ちっと自分が住んでいる世界を俯瞰して見てみるかい?

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