noteを書くこと。祈ること。会話すること。
あんたも、毎日何かを続けているんじゃないかな?
俺も毎日何かを感じながら、そいつを言葉として記録し続けてみている。
このnoteもそんな記録の一つ。
最近じゃ、世の中を騒がしている出来事に翻弄されるような記録も目立ってきている。
まあ、俺が感じていることを言葉にしている以上は、俺が翻弄されていたらそれがストレートに表現されるのは、シンプルかつ道理にかなっているってもんだよな。
でも、そんな記録を別の言葉で表現してくれているヒトもいる。
今回は、俺たちが日々残している記録について考えてみる回だ。
俺たちの記録がどこに向かっているのか。ちっと思いを馳せてみようぜ。
誰にも読まれないブログは何者なのか
ありがたいことに、このnoteには読んでくれるあんたがいる。
それでも、俺が最初にnoteをやり始めたころは、それこそ誰とつながっているわけでもなく、誰が読んでくれるかなんてことは二の次で書き始めていたような気がする。
そうだよな。誰もが最初は「誰ともつながっていない」ところからスタートしているはずだ。
日々をともにしている職場の仲間や良く会う友人に向けてnoteなりのブログをスタートしているやつって、結構レアなんじゃなかろうか?
だとすれば、俺たちは一体何のためにnoteを書き始めたんだろう?
俺の場合は、俺の考えていることを形にすることで、その考えをオモロイと思ってくれるあんたとのつながりが欲しかった。
でも、それと同時に感じていたことが別にもあった。
俺の考え方を世の中にさらしてみたい。
そんな真っ正直な感覚もあるわけなんだよ。
そんな感覚を持っているなかで、2020年の始まりの頃、もらすとしずむさんのこのnoteを読んだんだ。
そこにはこんな言葉が綴られていた。
誰にも読まれないブログや呟きは「祈り」のようなものだと結論付けられた
出典:上記note
この「祈り」という言葉が俺の感覚をひとしきり刺激したことを思い出す。
そうだ、俺たちは祈っていたんだ、とね。
日々の出来事やニュースの中で生まれては消えていく様々な思い。
それを形にすることを「祈り」という。
俺たちは日々ひたすらに祈り続ける殉教者だったのか。
祈りの次にやること
とは言え、俺たちは何に向かって祈っているのか。
まるでネットの巨大な海に潜むクトゥルフの神々に対して祈っているのか?
その神々にはGoogleだったりAmazonだったりという名前がついていたりもする。
俺たちはそんな資本主義という神話のなかからインターネットと言う媒体を通じて受肉した神々に祈りを捧げているんだろうか?
多分、それはYESでありNOだ。
結果として俺たちの祈りはそれらの神々の「力」に姿を変えていっている。
俺たちが考えていることは、それすなわち「情報」だ。「情報」はネット社会における神々の力そのものだもんな。
俺たちの祈りはそれらの神々の力となっているわけだ。
ところが、俺たちは当然それらの神々のために祈っているわけじゃない。
そんなことを目的に祈っている奴は多分ただの一人もいないんじゃないだろうか?
では俺たちはなぜ祈り続けているのか。
それはやっぱり、このnoteを読んでくれるあんたと会話がしたいからだ。
俺の感覚になんかしらの感情を抱いてくれるあんたと会話したいからだ。
俺の大好きなマンガにベルセルクってマンガがある。
その中のセリフを最後に引用してみよう。
祈るな!!祈れば手が塞がる!てめえが握ってるそれは何だ?!
出典:ベルセルク
俺たちはnoteで祈ることの次に何かを始めなければならないのかもしれない。では、それは何なのか?
俺は、Googleに祈りを捧げながら、あんたとの会話を始めたい。
その会話はもはや祈りではなく、行動になると思うんだよね。
行動ってのは何かを生み出す行為だ。
それが一体何を生み出すのかは皆目検討がつかないんだけれどね。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは会話をもって何かを生み出せると思うかい?
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