俺たちのモノサシを共有する意味
あんたは反省ってやつをする機会に恵まれているかい?
俺たちオッサンは、日々の出来事に追い回されながら毎日を過ごしていると思う。
そんな中で、自分の行動なりその結果なりを振り返る機会ってやつは、どうしたって自分から率先してやるのは難しい。
なんつってもそれは過去の自分を否定することにつながるし、それは「自分がダメだ」って思う瞬間を自ら作るようなものだからな。
でも、反省ってやつが俺たちにもたらす効果は実のところ計り知れない。
反省によって、打開策が見つかればこの先似たようなことが起きても、対処できるってもんだからな。
今回は、反省ってやつをするときに、俺たちの中に起きてしまう反発的な感覚についてちょっと考えてみようと思うんだ。
まあ、軽い気持ちで付き合ってみてくれよな。
若かりし頃のとんがり
若い頃、あんたはどんな若者だった?
俺の場合は、何にでも突っかかって、とんがり続ける嫌な若者だった。
自分に対する指摘は、その指摘をするヤツが自分を凌駕していないと納得行かなかったし、その凌駕ってやつも、自分だけのモノサシで測った判断に基づくものだった。
自分が正しいと思うことを徹底的にやって、その結果もついてきた事もあった。
その結果がもたらす効果ってヤツを周りのオッサンたちは活用することを選択したんだと思う。
俺は俺のモノサシで徹底的に「正しいこと」をやり続けた。
そして、気がつくと誰も俺に何かを教えてくれるなんてことはなくなった。
そして、俺は一人の力で物事をこなすしかなくなった。
当然ながら、自分一人の力なんてものはたかがしれている。
みんなの協力があってはじめて大きなことを成し遂げられる。
でも周りのヤツは「正しいこと」をやり続けた俺に手を差し伸べることはなかった。
なぜか?
俺は俺のモノサシを誰かときちんと共有出来ていなかったからなんだと今なら思う。
共有するための共感
共有するために必要なのは何か?
それが共感だ。
俺たちは俺たちの話をキチンと聞いてもらうためには、俺たちそのものに興味を持ってもらう必要がある。
興味を持ってもらうためには、結果だけではなく、その結果に至るストーリーが大切だよな。
このストーリーを紡ぎ出すために必要なもの、それが共感だと思うんだ。
話をしている相手はどんな状況にあるのか。その状況はどんな理由で出来上がったのか。
そして、その状況をその相手はどう感じているのか。
そういうことを想像すること。共感ってやつは、その想像の先にあると思うんだよな。
若い頃の俺は自分のモノサシに固執するあまり、相手のモノサシの存在を見ることを怠っていたんだと思う。
相手のモノサシを考えること
なぜ俺は相手のモノサシを見なかったのか。
相手のモノサシを理解するってことは、少なからず自分のモノサシに疑いを持つってことだからなんだと思う。
自分が自分のモノサシを信じられなくなること。
それは恐怖以外の何物でもない。
自分なりのモノサシってやつがあって、はじめて何か行動を起こす勇気を持てる。
そのモノサシが「いい加減」だと思ってしまったら、何をやるにしても自身を持って行動なんてできなくなっちまう。
常に周りの目を気にしながら生きるのは、そりゃー辛いもんだろうしな。
それでも共感する、もっと言えば仲間を得るためには相手のモノサシを考えることが大切だ。
ではどうすればいいのか?
きっとそれは簡単だ。
相手のモノサシと自分のモノサシを比べて、その違いを相手と共有すればいい。
違いを直したほうがいいと思うのなら、自分のモノサシを調整すればいい。それは自分を曲げるってことじゃなくて、自分を成長させるってことだからな。
間違っても相手のモノサシを変えようとしちゃダメだ。
相手のモノサシを変える自由は相手にしか無いんだからな。
相手のモノサシが間違っていると思うのなら、その思う理由をきちんと説明すればいい。
その説明が納得行くものなら相手もモノサシを見直すだろうし、納得行かないなら、あんたを批判するだろう。
その批判は自分のモノサシの間違いを指摘してくれているのかもしれない。
常に自分のモノサシを大事に育てる。
そのために自分に何かを言ってくれる相手を大切にする。
そして、自分になにか言ってくれるヤツに、常に共感する。
その繰り返しがきっと大事なんだろうな。
なあ、あんたはどうだい?
あんたのモノサシ、誰かと共有しているかい?
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