曖昧な認識と限られた記録で判断している俺たち
何を考えていたのか。
そんなシンプルなことですら、俺たちは毎日すげぇ勢いで忘れていくもんだよな。
例えば、大学に入った頃に何に笑って何に怒っていたのか、あんたは思い出せるかい?
ぶっちゃけ、大学1年のころの想い出なんて、履修の手続きが良く分からないって思ったイメージと、通うのが遠いなぁっておもった感覚と、学食のカツカレーのカツが神業のように薄いってことくらいだ。
そんなウン十年前の記憶なんて薄れていて当たり前だろうってあんたは言うかもしれない。
でもよ?
キッカリ1週間前の晩飯のことだって俺たちは正確に覚えていられない。
あんたも覚えていないよな?
今回はこの忘却ってことについて思いを巡らせてみる回だ。
あんたの記憶。本当にあんたのものかい?
失われ続ける記憶
昨日の晩飯についてだって、正確に思い出すために一苦労するってことはよくあることだよな。
特に食事のように毎日行われることについては、どんどん片っ端から忘れていく。
たまたま、あんたがレコーディングダイエットをやっているんじゃなければ、その食事の記憶ってやつは片っ端から消去されていく。
特別な行事ですごくうまいものを食べた記憶はあっても、そのときに飲んだドリンクの名前だって俺たちは覚えていることは稀だ。
試しにあんたが初めて飲んだ酒は何だったか思い出そうとしてみてくれよ。
自慢じゃないが、俺は全く思い出せない。
どんな酒をどんな状況でどんな味を感じながら飲んだのか。
全く思い出すことが出来ない。
きっとビール好きな親父に付き合ってビールを飲んだんだろうが、それも全く覚えていない。
飲酒ってやつは、未成年から成人して「初めて」って経験の一つなはずなのにな。
そんな「特別」なことですら、俺たちはまっとうに記憶できていないってわけだ。
記憶とイメージ
そんな風にものすごい量の情報を俺たちは忘却の彼方に追いやっているわけだが、その記憶の代わりに保持し続けられるものがある。
そいつがイメージだ。
このイメージってやつは、結構厄介だよな。
なぜって?
イメージってやつは事実とも違うし、そのイメージがもたらしているものってのが、どんな情報に基づくかってやつについて、俺たちは綺麗サッパリ忘れてしまっているからだ。
例えば○○さんって感じ悪いよねぇってあんたが思っていたとする。
そう思うきっかけはなんかあったんだとは思う。
でも、そのきっかけの記憶を保持し続けられるヤツはほとんど居ない。
同じように、〇〇さんって面白いよね。ってあんたが思っていたとする。
それも同じようにそう思ったきっかけについては、俺たちは綺麗サッパリ忘れてしまっている。
まるで消え続ける地面から逃れるように山を登っているようなもんだ。
俺たちはかつて感じた「なにか」をイメージとして持ち続けることで、過去の自分との連続性のようなものを自分の土台に据えているってことなのかもしれないな。
保持される「記録」
そんな風に俺たちの中には情報は残らず、イメージだけが残る。
でもそれじゃ困ることもあるから、ヒトは「記録」という外部媒体に情報を移す。
仕事であれば議事録であり、会話メモであり、課題台帳だ。
この記録ってやつは俺たちのイメージと乖離し続ける。
その時はどういう意図でその記録を書いたのかなんてことはその記録を読んだときには覚えていない。
あるのは記録されたシンプルな情報だけだ。
その記録をその時の状況と判断で評価し直し続ける。
それが俺たちヒトのたどっていることなんだろう。
つまり、俺たちはイメージという曖昧なもので判断を下すわけだが、そのイメージを補強するために記録という外部情報を用いるってことなんだろう。
そう考えると、俺たちは本当は何で判断をしているんだろうな?
言い換えれば、イメージって本当は何なんだろうな?
AIが俺達の世界を変えると騒がれている。
AIなんてわけのわからないものに世界を変えられることに、俺たちは拒否感を感じている。
でもさ、俺たちは俺たち自身が何を持って判断しているかすら分かっちゃいないのが現実だ。
なにしろ、昨日の晩飯すら思い出せないような俺たちが、なぜ同じ品質で物事を判断できるのかって証明することが出来るとは思えないもんな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、この曖昧な「記憶」で何を判断するんだろうな?
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