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子どもの感情と向き合う

あんたも自分の感情ってやつについて考えることがあるかい?

俺たちヒトという生き物にとって、感情ってのは避けて通ることができない存在だよな。
俺たちは事あるごとに笑ったり泣いたり怒ったり喜んだりしている。

ところが、この感情ってやつはストレートに表現してばかりだと社会生活に支障をきたすものでもある。
そらそうだ。
仕事を始めとする様々な社会での出来事に対して感情を爆発させていたんではコミュニケーションが成立しないことも多々あるからね。

その制約事項があるから、俺たちはガキンチョの頃に感情を表に出さない訓練をすることになるわけだけれども、誰しもがそのコントロールをうまく出来るわけでもない。

今回は感情のコントロールについて考えてみる回だ。

ちっと俺たちが世の中でうまく立ち回るために必要な方法について考えてみようぜ。

感情の抑制

自分の息子の様子を見ていると、感情の抑制ってのは俺たちがガキンチョの頃に比べてより求められている世界観の中で生きているように見える。

俺たちがガキンチョの頃なんて、取っ組み合いのケンカなんて日常茶飯事だったじゃんか。
何か気に食わなければ殴る蹴るで感情を爆発させるなんて当たり前だったし、中学の頃なんて校舎の窓が投石で割れているのなんて普通だった。

ケンカで怒りを爆発させたかと思えば大声で笑ったりもしていた。
ホントに今の子どもたちに比べるとストレートに感情を表現する機会が多かったんじゃないかって思うわけだ。

ところが今の子どもたちはケンカなんてもっての外。
競争も良くないなんて話も聞く。

それでいて、感情が沸き起こることそのものはヒトという生き物である以上は抑える事ができないから、その行き場のない感情をストレスとして抱える日常を送っているってわけだ。

感情をコントロールする主体

それでも、俺たちも感情を爆発させ続けていたんでは成り立たないことを肌で感じたんだと思う。

もちろん、教師や親に叱ってもらったりして気づいたってのもあるかも知れないけれども、俺たちは感情の赴くままに行動することのデメリットってやつを自らの体験から思い知ったはずだ。

ところが、今の子どもたちは感情のコントロールってのが「出来て当たり前」の世界観で生きている。

そこにあるのは体験から得た教訓ではなくて、純然たるルールだけだ。

教訓は自らの改善点を気づかせてくれるが、ルールが守れないのはシンプルな落伍者だ。
そこには学びではなく失格という烙印しか残らない。

なぜ感情を爆発させてはいけないのかって学びなくして感情を爆発させるのはヒトとしての欠陥を抱えているというレッテルだけが残る感じ。

これって絶対に健全じゃないと思わないか?

感情を想像する

とは言え、感情を爆発させ続けたんではママナラナイのも現実だ。

でも今の子どもたちはそのママナラナイを体験から学ぶことができる機会が少ないのも現実だ。

ならどうするのか?

考えてみたんだけれども、やっぱり「想像する」ことが大切なんだと思うんだよな。

自分が怒りを爆発させることで相手がどんなふうに感じるかを想像する。
相手が怒りを爆発させることで自分がどんなふうに感じるかを想像する。

誰かが泣いている理由を想像する。
自分が泣くかも知れない出来事について想像する。

これからの人生の中で起きる様々な出来事について想像する。
怒りも悲しみも笑いも喜びも想像する。

そして、その想像にリアリティを感じられないって感覚が現れたときに、自分の外にある情報に目を向けてもらう。
世の中にある様々なニュースや物語に目を向けてもらう。

それらの情報にふれることで、自分の想像がリアルさを増していくってことを体験してもらう。

これを続けることで、子どもたちは自分の感情をコントロールすることの価値を体験出来るんじゃないかって思うんだよ。

つまり有名なセリフを引用すればこう言うことかな。

あらゆる残酷な空想に耐えておけ。現実は突然無慈悲なものになるものだからな。いつか来る分かれ道に備えて。
出典:HUNTER×HUNTER

なあ、あんたはどう思う?

子どもたちは想像による体験で優しさを勝ち取る事ができると思うかい?

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