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子どもたちが成長するための環境

あんたも緊急事態宣言ってやつがあーだこーだ言われながら政局の名のもとに政治が動いている様を眺めているかい?

ぶっちゃけ、この状況の影響をもろに受けているのは子どもたちだって思っているんだけれどもどうなんだろう?

我が家の息子は分散登校ってことで、半分が自宅でのオンライン授業、半分が登校して通常の授業ってことになっている。
でも、この緊急事態宣言に対する子どもたちの授業をどうするかってのは地方の教育委員会に丸投げされているってのが現実らしく、場所によっては登校するかどうかは親御さんが決めてくださいって地域もあるらしい。

なあ、それってよ?
上から下へどんどん丸投げされているだけって見えるのは俺だけかね?

今回は子どもたちの教育ってことと今の異常な状態について親がどう考えていく必要があるのかってのを考えてみる回だ。

誰もが責任を取ることが出来ない状況の中で、それでも子どもたちが生きていくための工夫ってやつを考えてみようぜ。

子どもたちにとっての理想の状況

まずはあーだこーだ言う前に今の状況の中で子どもたちにとって理想とされる教育環境ってのはどういうものなのかを想像する必要があるよな。

大前提として、デルタ株を始めとする変異株は子どもたちにも普通に感染力を奮っているって現実がある。
変異するまでは子どもたちにはあまり感染しないって状況があったって認識がものの見事に崩れ去っているってわけだ。

しかも頼みの綱であるワクチンは12歳未満の子どもたちには受けさせることが現状は出来ない。
治験が取れていないんだから、それは受け入れるべき現実ってやつなわけだ。

つまり今の小学生たちはいつ感染するかわからないけれども、とりあえず勉強するために学校に来てみようかって状況ってわけだ。

メチャクチャおっかなくね?

何が怖いって学校に来てみようぜって言わされている学校の先生たちが、学校に来ることの安全性を理解できる情報が無い現実があるってことだ。

でも感染するかもしんないから学校に来ないでねって言ってたら子どもたちは本来学ぶべき教育を全く受けられないって状況が発生しちまう。

そうなったら、将来を担う人材をみすみすボンクラにしちまうってことだ。
こいつはいただけない。

なら一体、今の子どもたちにとっての理想の教育環境ってのはどういうものなんだろう?

オンライン授業でまかなえない要素

普通に考えればオンライン授業で教育を賄うってのは思いつくじゃんか。
そして、その手段が次善の策でしか無いことも同時に感じるところだと思う。

でもそのオンライン授業によって、子どもたちがが何を失うことになるのかって俺たちは真剣に考えたことがあるんだろうか?
なんとなく「今までと違う」ってことに拒否反応をしてしまっているだけなのかも知れないってあんたも思ったりしないかい?

その前提で考えてみたときに、まず思いついたのが「クラスメイトの存在」ってやつだった。

オンライン授業で知るべき知識を情報として受け取ることはもしかしたら出来るのかも知れない。
ただ、それは情報として受け取っているだけであって、知識として「勝ち取った」ものじゃないんじゃないかって思うんだよな。

なら、俺たちはどうやって情報を知識にしてきたんだろう?

多分だけれども、俺たちは「あいつよりも」って感覚をもとに知識を得てきたんじゃなかろうか?

クラスメイトよりも勉強が出来るって思われたい。
隣りに座っているやつよりも優秀でありたい。
目の前にいる誰かよりも自分を見てもらいたい。

そう言う見事なまでのエゴが俺たちに知識を得るって言う欲求を授けてきたんじゃないか?

そしてそのエゴってやつがオンライン授業っていう授業形態によって感じることができなくなる。
自分との比較対象を実感できない状況で、子どもたちはどうやって自分の成長ってカタルシスを得ることが出来るようになるんだろう?

なあ、あんたはどう思う?

子どもたちは自分の存在意義を感じる場を奪われかねない世界でどうやって自分を認められるように出来るんだろうか?

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