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才能を感覚で切り捨てているって事実

あんたも芸能界のニュースに一喜一憂しているかい?

誰それが熱愛中だの、誰それが公開前の映画の次回作について語っただとか、ゴシップ的なニュースからガッツリしたエンタメの話まで、俺たちは情報を消費しまくっているよな。

ただ、そんなニュースの中で、俺たちを悲しませるニュースもある。

才能あるヒトが事件を起こしてしまって、俺たちの前から消えてしまうってニュースだ。

古くは田代まさしさんやら清水健太郎さんやら枚挙にいとまがないこの手のニュース。

ありとあらゆるヒトが起こした過ちによって、俺たちが堪能してきたエンタメが突如として無くなってしまう。

今回は、芸能界というヒトを楽しませる世界での過ちについて考えてみる回だ。

エンタメの消費者として、改めて考えてみようや。

考える切っ掛けをくれたニュース

例によって芸能界について考える切っ掛けをくれたニュースがある。

そいつがこれだ。

いやぁ、逃げちゃだめとは思う。
改めて、西野亮廣さんのように運転するリスクを考慮して車を運転することをやめるってのも意味のあることなのかも知れない。
これは芸能人に限らず、俺たち全員に言える事かもしれないよな。

運転ってのは日常の中に溶け込んでしまっている行為だからこそ、一瞬でこう言う事件につながってしまうってことを意識から漏らしてしまいがちだもんな。

で、運転のリスクについては、一旦脇においておくとして、ぶっちゃけ伊藤健太郎くんの演技ってのに俺は魅了されていた。

あの幅のある演技は伸びしろ十分。
いくらでも名作を量産できていたと思う。

でも今回の事件をきっかけに、伊藤健太郎くんを見ることは当面は無くなってしまうだろう。
バラエティでのあの初々しい感じもこれから先、見ることはないのかも知れない。

たまらない喪失感だ。

俺たちを襲い続けている喪失感

このニュースを見たときに、山口達也さんのことを思い出してしまうのは必然だよな。

なんつーんだ?
もう、掛け値無しで大好きだったんだよ。オッサンとしては。

あのガテン系兄貴肌という唯一無比のキャラクターは同じ要素をもったTOKIOのメンバーでも補完しきれなかったことは最近の鉄腕ダッシュを見ていても明らかだよな。

女子高生への接吻に飲酒運転と、コレまたどうやっても養護なんて出来る要素が無いことで芸能界を去っていったわけだけれども、どうも俺には感じるところがある。

罪を裁くのを「庶民」がやっちゃだめなんじゃないか?ってさ。

だってそうだろう?
俺たち庶民は法律のことを詳しく知っているわけでもなければ、善悪について哲学的な考察を積み上げてきているわけでもない。

俺らが本質的に誰かを客観的にさばくことなんて出来ないよな?

法治国家で暮らす一庶民としては、「罪」というのは「法」にどの様に抵触したかを専門家が判断して、その結果として量刑が決まり、その量刑をこなしたヒトは本来は0ベースで庶民評価をするもんだと思うんだよね。

つまり、俺たち庶民は「悪」を感覚として捉えてはいるものの、「罪」については判断できるほどの専門性を持っていないってわけだ。

善悪ではなく成果で考える

過去の芸能界を振り返ってみると、結構「悪人」とされるヒトが時代のヒトとして君臨していたりする。

勝新太郎さんしかり。
横山やすしさんしかり。

結構やばめのことをしつつ、しっかりと世の中に受け入れられていたって事実がある。

テレビや映画という一方通行のエンタメが成立していたからってことはあるかも知れない。
でも、彼らの才能を世の中が受け入れていたってのは厳然とした事実だと思うんだよ。

ならさ?
俺たちも伊藤健太郎くんやら山口達也さんを受け入れる可能性ってのがあるって意味だよな?

俺たちは彼らの成果ってやつを実感しているじゃんか。
その成果ってやつをワヤにしちまって、本当に俺たちは後悔しないのか?

あんたも日々の生活をしていて実感するだろう?
有能なやつってのはレアなんだよ!

そして、俺たちは有能なやつを「罪」という理由や「悪」という感覚で永遠に失っていいわけないじゃないか!

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは、赦すって感覚をどうやったら手に入れられるんだろう?

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