否定の感情ではなく改善の行動
あんたも日々のニュースやらなんやらで「○○なんてけしからん」的な情報に触れているかい?
ニュースなんて、そんな情報で溢れかえっている気がするんだよな。
それが政治の問題だったり、芸能人の発言だったり、はたまたどこかのユーチューバーの話だったりするわけだけれども、何にしても俺たちの身の回りには数多くの否定の情報がまるで空気のように存在しているよな。
で、ちょっと思うんだけれど、なんでこんなにも多くの否定の情報が存在しているんだろうか?
今回は自分たちの感覚がどこから来ているのかってのを考えてみる回だ。
まあ、正解にたどり着く話じゃないけれども付き合ってくれよな。
否定することは気分がいいのか?
まず考えたいのが、「俺たちが何かを否定するときに気分がいいのか?」って疑問点だ。
俺の場合でいくと、決して気分の良いものじゃないんだよな。何かを否定するのって。
あんただってそうだろう?
何かを否定する時って大抵が「怒り」だとか「悲しみ」の感情が自分の中にあるじゃんか。
その状態を心地よいって思うことって自然に考えるとあんまりないと思うんだよ。
で、ちょっと考えてみる。
俺たちは「怒り」や「悲しみ」を感じたから何かを否定するんだろうか?
何かを否定することで「怒り」や「悲しみ」を生みだしているんだろうか?
多分、俺たちの中に外部からの情報に対する感情が沸き起こって、その感情のままに否定の表現をし、その結果として感情が増幅されるってプロセスだと思うんだよな。
で、最初の「怒り」や「悲しみ」が起きるのは俺たちにはコントロールできない。
すべての情報をシャットアウトして感情を動かさないようにするなんてデキッコナイスだもんな。
でもその次に起こす否定って行動はもしかしたらコントロールできるのかもしれない。
もし否定って行動が俺たちの嫌な感情を増幅させるだけだとしたら、そんなの意味ないもんな。
否定の役割
でも否定というか、物事に対する批判ってのは自分が負の感情を抱くきっかけになる出来事が起きることを抑制するって意味もあるとは思う。
戦争イクナイ!
暴力イクナイ!
差別イクナイ!
そのどれもが否定から始まる発信なわけだしね。
たださ。
あんたが「バカだなぁ」って思うことをしたヒトに「おまえはバカだ」って伝えたとして、それでその言われたヒトが何かを変えるってことってあると思うかい?
ヒトが行動を変えるためにはその行動を変える必要性についてそのヒトが納得できたときだけなんだよな。
ここでちょっと気をつけておかないといけないと思うのが、必要なのは相手の納得であって、相手を論破することじゃないってことなんだと思うんだよ。
自分が否定したい行動を相手がやめることで相手もメリットを受けられる状況の共有。
多分、それが必要なんだと思うんだ。
SNSでの否定の危険性
で、俺たち全員を発信者に変化させたSNSという仕組み。
この仕組みを通じた否定って結構危険性が高いと思うんだよ。
特にTwitterのような文字数制限が厳しいSNSだとなおさらだと思う。
どうやったってあの短い文字数で相手の行動の変化が必要だってことを相手に伝えるのって無理があるじゃんか。
短い文章による発信のお手軽さってのは、コミュニケーションの量を増やすって意味ではものすごい効果があったとは思うんだ。
でも、それは俺たちが最初に感じた負の感情をストレートに表現してしまうって側面もあるんだよな。
結果としてTwitterには負の感情の垂れ流しのような状況が出来ている部分があると思うわけだ。
じゃあどうすれば良いのかって?
それだよ。
どうすれば良いのかってことを発信するってことなんだよ。
何かを否定する感情があんたの中に生まれたときに、その感情はどの事柄が招いたものなのか。その事柄は何によって生み出されたのか。そして、その事柄を生みだした誰かの行動はなぜ起こされたのか?
それを分析した上で、こうしたらどうだったんだろう?って相手に伝わるように発信する。
その積み重ねを出来た時、俺たちはヘイトって状況から一歩離れた場所にたどり着ける気がするんだよね。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはお互いを高め合うSNSを手に入れる事ができるんだろうか?
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