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俺たちの文章の意味

あんたの発信ってのはあんたにどんな価値を与えているんだろうな。

俺みたいに何かしら毎日書いてみてるやつでもだよ。
この行為が自分自身になんの意味を持たせているのかって改めて聞かれるとだ。

一瞬、「うっ」ってなっちまうんだよね。

いや、確かに俺という個性をあんたに知ってもらいたいっていう欲求が根っこにはある。
それをきっかけに始めたみたいなところあるしね。

そして俺の個性のどっかに引っかかりを感じて、あんたがコメントくれたなら、それで俺は幸福を感じているってのは事実だ。

その上で考える。
その他にもなんかあるんじゃないか?

今回は自分の発信が自分自身に与える影響について考えてみる回だ。

ちっと別の切り口での価値ってのを考えてみようぜ。

自分を助ける言葉

いや、なんでこんなことを突然考え始めたかと言うとだよ。

こんなnoteを読ませてもらったんだ。

非常に散文的な文章で揺れ動く気持ちみたいなものが表現されていると俺は感じたんだ。

パキッとした道が見えているわけじゃない。
文字通りたゆたっている様子が文章に練り込まれていると感じたんだよね。

これを読ませてもらってだよ。
「ああ、俺と同じだ」
なんて感じたんだよね。

俺の書く文章ってさ。
オモロイと感じたことを片っ端から言葉に落とすような感じだと俺自身は感じているんだよ。

まあ、若干泣き言が交じることもあるけどさ。

で、そういう意味ではみっちさんとおんなじ様にパキッとした道が見えているわけじゃないんだ。
なんなら歩いているわけでもないのかもしれない。

ただ、「今」の俺が感じていることを文章にし続ける。

そこに本質的な目的はない。
ただ「たゆたっている」んだよな。

でね。

みっちさんのnoteの中でこんなことを書いてくれていたんだ。

誰かのためより、まずは自分を助ける言葉を。
まずは、自分。

出典:みっちさんのnote

自分を助ける言葉。
結構、俺には刺さる言葉だったんだ。

俺は俺を助ける文章を書いているのかってさ。

俺の文章が俺に与えるもの

そう考えるとだ。
俺の文章が表現してきたものに、あんたがスキとかコメントとか、なんなら引用とかしてくれることがあるわけじゃんか。

それが俺の文章が俺に与えてくれるものだろって考えもあると思う。

でもさ。
それはあんたのスキやコメントや引用がくれてくれる価値であって、俺の文章が俺に与えているものじゃないんだよな。

例えばだ。

今回のこのみっちさんのnoteはだ。
俺に「お前なにやってんの?」という疑問を与えてくれた。

俺の文章は俺に疑問を与えているのか。

与えてはいる。
そして、同時に「その時の俺」が出した結論を俺に叩きつける。
結論は「妥協」と言い換えることが出来るようなこともある。

そうなんだよな。
きっと俺には俺が残した疑問ではなく、その時の俺が出した結論って方に意味を感じている気がするんだよ。

過去の俺の文章を眺める

じゃあ、過去の俺はどんな結論を出していたのか。

ランダムに俺の過去記事を眺めてみる。

この文章では「やせ我慢」の意味について考えている。

やせ我慢をして背伸びをしないと生き残れないってのがこの文書の結論だ。
そして、同時にどこに向かって背伸びしなければいけないのかをあんたに問いかけている。

本質的に、全く今も状況としては同じ結論に至る話だと思う。

でもね。

俺は今、「やせ我慢しているか?」と問われたら、きっと答えはNOだ。

ほんの数年前の俺が導き出した結論から、今の俺は逃げているって感じさせられた。

そうなんだよ。
過去の俺が今の俺を叱ってくれている。
お前、手を抜いて生きてんじゃねーぞと言っている。

ああ、そうか。

俺の文章は未来の俺に影響を与えるなんてこともありうるんだよな。

それだったら、今の俺が感じて考えたことを文章にする意味はあるのかもしれない。

そして、その意味があんたにも意味を与えたとしたら。
そいつはさらなる意味を生み出すってことだもんな。

なあ、あんたはどうだい?

あんたの文章はあんたにどんな意味を授けている?

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