ハッピーエンドという娯楽
あんたはハッピーエンドの物語ってのが好きかい?
俺たちの周りには星の数ほどの物語が存在感を持って俺たちに接してくれている。
その中でもハッピーエンドとされる物語は数多くあるよな。
半沢直樹シリーズや水戸黄門のような勧善懲悪的な物語はその一例だと思う。
ところが、最近俺たちの身の回りにある物語を眺めてみると、意外とハッピーエンドではない物語も存在感を示している。
今回は俺たちが求めているハッピーエンドの形について考えてみる回だ。
そもそも俺たちは何に幸せを感じているのか。ちっと整理してみようぜ。
完全勝利の物語
まず思うのが、完全なるハッピーエンドってどんなもんなのかって話だ。
艱難辛苦の末にそのすべての困難を打ち破って勝利する。
完全勝利の物語がそれにあたるのかもしれない。
さっき書いた半沢直樹も水戸黄門もそれだよな。
この手の作品に必要なものってなんだろうか?
主人公サイドの圧倒的な能力?
そうじゃないよな。
完全に「悪」だと断ずる事ができる悪役なんだよね。
悪役サイドにちょっとでも「義」があると、俺たちはその悪役がやられてしまう状況に「ハッピー」を感じられなくなる部分があると思うんだ。
悪役が完全に悪じゃなくて、しかも主人公の圧倒的な力でねじ伏せるみたいな物語はどこか作品として破綻してしまう。
ガンダムSEED Destinyみたいにね。
そう言う意味ではハッピーエンドには「巨悪」が必要だってのは、なんとも矛盾した感じがしてオモロイと思うんだよね。
その意味では鬼滅の刃もきちんと「巨悪」を描けていたからこその魅力なのかもしれないよな。
※鬼にあるのは「義」じゃなくて「悲哀」だから
ガンダムはハッピーエンドでは描けない
書いてて思ったけれど、ガンダムSEED Destinyに納得行かないってヒトは結構いると思う。
それはさっき書いたとおり、主人公が敵を最終的には圧倒的な力でねじ伏せることで物語が終わるからだ。
「俺の考えたキャラ最強!!」ってのは明らかに読み手をしらけさせる要素だと思うんだよ。
同じ最強キャラクターでもケンシロウは結構な頻度で相手を悲しみながら戦うし、範馬刃牙だって相手を尊敬しながら戦う。
「オマイラ弱いんだから突っかかってくるな」ってのは主人公としては最も表現しちゃイケナイ要素なんだよな。
で、そう考えてみるとガンダムの宇宙世紀ものの作品はほぼ例外なくアンハッピーエンドを迎えていると思う。
1stガンダムはホワイトベースからガンダムから全部失って、敵のジオンも大打撃を受けて、自分たちが属する地球連邦も腐敗を止められない形で終わるし、Ζは主人公が正気を失って終わる。
ZZはもしかしたらハッピーエンドか?って思うけれど「誰が幸せになってんの?」って問われるとうまく答えられない気がする。
以降、逆襲のシャアしかりユニコーンしかり、ハサウェイしかり。
そうか。俺たちはガンダムという作品にはハッピーエンドを求めてないんだよな。
進撃の巨人というアンハッピー
ここ最近の作品で、世の中に最も影響を残したアンハッピーエンドの作品といえば進撃の巨人だよな。
っていうか、あの作品では誰かがハッピーだった瞬間ってのがひとかけらもない気がする。
あ、飯抜きって言われたあとにパンをクリスタから恵んでもらったサシャは幸せだったかな?
そのくらいのほんの小さな幸せくらいしか描かれていない。
それでも俺たちは進撃の巨人という作品から目を話すことはできなかった。
徹頭徹尾、あの世界が抱えている問題と向き合いたいという衝動にかられていた。
ハッピーではない物語を求めるという感情。
これはどこから来るんだろう?
俺たちは世の中の出来事を体験して、その結果として現実の世の中には完全な「悪」ってのが無いってことを知っている。
世の中のヒトは何らかの「義」を持っていて、完全悪にはなりえない。
つまり、ハッピーエンドに必要な「巨悪」ってのは存在できないってわけだ。
そうなってくると、一つの考えが出てくる。
ハッピーエンドは現実では起きないってことだ。
俺たちがハッピーエンドではない作品を求める感情。
それは現実に目を向けたいという本能なのかもしれないな。
なあ、あんたはどう思う?
それでも俺たちは物語に「ハッピー」を求め続けることが出来ると思うかい?
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