学び取ること、学ばせること
あんたも子どもの習い事に付き合うことってあるかい?
我が家の息子は空手を習っているんだけれども、あんまりのめり込んでやっている様子はない。
元来がインドア派で体を動かすのはそんなに得意ではないので、そらそうかってのも思うんだけれども、それでもなんやかんやで続けさせてもらっている感じだ。
で、この間その空手で息子はとあるトーナメントに参加させてもらったんだよね。
結果は惨敗。
型でも組手でもぐうの音も出ないくらいの惨敗だった。
で、その試合のあとに妻と息子と話をしてみたんだ。
今回はその話の中で感じたなにかを学ぶこととなにかを教えることについて考える回だ。
ちっと成長に必要なものについて一緒に考えてみようぜ。
学び取るために必要なもの
実際、そのトーナメントの試合を眺めさせてもらったんだけれども、一つびっくりしたことがある。
息子と同じ小学4年生の子どもたちの目つきだ。
もちろん個人差はあるけれども、どの子どもも目つきの中に「断固たる決意」とでも言うべきものを宿している様に見えたんだよね。
中には始めたばかりでおどおどしてしまっている子もいたけれども、それでも一生懸命やっているってのはひしひしと伝わってきた。
試合が終わって、実力を発揮することが出来ずに涙する子どもも結構いた。
みんな本気なんだなぁと感じたんだ。
その意味では息子も悔しがっていたので、思うところはあったんだと思う。
そして、試合が一通り終わり、表彰式を経て最後に空手を教えてくれる先生のところに子どもたちが集まって先生のお言葉を頂いたんだよね。
えらい喧騒の中でのお言葉だったのでよく聞き取れないところはあったけれども、要約するとこうだったと思う。
「振り返って考えろ」と。
負けた原因ってのはなにか?
その原因を克服するためには何をするべきか?
そして、そのするべきことを決められたなら、その決めたことを実行できているか?
総論だから個別の指摘を入れるというよりは、心構えに重きをおいて話してくれたんだと思う。
思考する癖。
それこそが何かを学ぶために必要なことなのかもなってその時思ったんだよね。
学ばせるために必要なもの
で、そのことを妻と息子と話したわけよ。
考えて自分を律していくことが大切ってことだよねってさ。
ところが、妻は自分とは全く違う感想を持ったらしい。
成功させるためには、成功するための道筋ってのを具体的に指摘していかないと、間違った方向に進んでいても気づけないってね。
特に我が息子の場合はあまり運動が得意な方ではないので、その入口としてはわかりやすく正解へ導くことが必要なんじゃないかって話だった。
妻はよく息子の空手教室に付き合ってくれているので、普段の教える様子をそれなりに見てくれているんだけれども、確かに何かを手取り足取りというよりは反復練習の中で自分で周りを見て学べってスタイルらしい。
確かに空手のような自分の体の動かし方を感覚で捉える必要がある習い事の場合、「手の角度はこう」とか「足の出し方はこう」というような形の美しさを表現するためのテクニックではなくて、その手がそうなる意味だとか、足がそうなる意味ってのに対して自分なりに答えを仮定して、その答えに進んでいくってことはものすごく重要だと思う。
その上で、妻は「具体性が足りない」と感じているようだ。
一回成功体験を経由しないと学ぶ側のモチベーションは保てないって意見だね。
モチベーションの源泉
実際、息子は空手に対してものすごいモチベーションを持っている様子はない。
それは妻の言う通り成功体験を積み上げていないってのはあると思う。
でもそれ以上に俺が感じるのは「闘争本能のなさ」だ。
幼児のころから比較的体が大きな息子にとって、闘争ってのは周りの大人から抑制され続けてきたと思う。
俺自身、幼児のころは体がでかくて周りの子どもと衝突しちゃ~泣かせるまでタコ殴りにしていたらしい。困った子どもだ。
今という時代は、そう言う子どものじゃれ合いってものについて、ものすごい抑制される状況にあると思うんだ。
おそらく息子が受けた闘争への抑止ってのは筆舌に尽くしがたい物があると思う。
その抑止の結果、息子は体を駆使するってことそのものに罪悪を感じるようになってしまったってのがあるのかもしれない。
なあ、あんたはどう思う?
じゃれ合いという子どもが本来経由する経験を時代が奪いつつある中で、子どもたちはどうやって闘争本能を鍛え上げる事ができるんだろうか?
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