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子供にとって親から貰いたいたったひとつの事とは?

随分久しぶりにも関わらず今回内容も超個人的な家族のことです。

ですが家族を持つ、子供を持つ方に僕が両親から教えられた事が参考になるかもしれないと思いこちらに再掲載です。

フェイスブック上で既に昨日アップした内容なのですが沢山の方にコメントを頂きました。
(フェイスブックアカウントを持っている方は他の方のコメント等はこちらから見れます)

また、きっとアカウントを持っていない親戚の方にも読んで頂きたくていう意味もあります。

と言うのも13年前母が亡くなった時の事を書いたら母のお姉さんから「お父さん(僕の父)から記事送って貰って何度も読み返して泣いてしまった」と言われていたから・・・。

その時の昔の記事はこちらに転載しています。

今回はそんな父親と母親を亡くした僕ら兄妹から親子の関係について考える機会になればなと思い書かせて頂きました。

***ここからフェイスブックからの転載記事***

【両親を亡くした事。これからの事について・・・】

ハロウィンの日に突然父が他界して、慌ただしく日本に帰国して葬式や手続きで駆け回った今回の日本滞在。

大抵4週間もいると人の多さや、せわしなさに段々ニュージーランドに戻りたくなって来るのですが、今回はこの国で住むという事を意識しながら過ごした6週間ちょっと。

12月に入ってからは少し余裕が出来て来て沢山の方にお会いできました。
本当に色々と声を掛けて頂いたのですが都合が合わなくて今回会えなかった人たちも少なくないですが・・・

実は僕らは来年の3月頃を目途にまた日本に来ます。
しかも数週間と言わず数年単位の滞在を考えています。

「僕ら」と言うのは家族皆で数年日本で暮らすという意味です。

実際この計画は1年以上前からありました。

以前から子供たちに日本の生活も一度経験させたいという想いもありましたし、丁度コロナで僕の留学や移住の仕事も止まっているというのもありましたし・・。

そんな事もあって今回何度かUPした葛飾の実家の上に住む予定をしていました。

父は孫たちと暮らす事を楽しみに家を改装して準備を進めていたのですがその頃東京でコロナが拡大して僕らがタイミングを見計らっていた頃ガンが見つかりました。

手術はうまくいったものの今年また再発。
僕は一人だけでも日本への渡航も考えましたが今度は僕らの住むニュージーランドでコロナが拡大して行き、一度出て行ったらなかなか戻れないという状況が続き・・・

定期的にやりとりをして「今すぐ悪化するという事ではない」との事だったのですが最後は免疫不全で肺炎を患い僕らも本人も全く予想していない形であっという間に逝ってしまいました。

妹から電話が来た時はあまりにも急で唖然としてしまいました。

僕らは13年前のクリスマスイブに母親も亡くしています。
でもその時は長い闘病生活の末だったのである程度は覚悟していたのですが今回の父親の場合はあまりにも急で・・・

これまで大病をした事が全くなかった父親が本当に突然逝ってしまいました。

今回は湯灌と言って棺桶に入る前の遺体の洗い清めも妹二人で見届けて喪主として葬儀を執り行なったのに正直まだあまり実感が湧きません。

僕とは違い余計な事は口にせず、いつも自分のやる事を迷わずに淡々と続けて来たイメージの強い父。
バリバリの団塊の世代で僕らが小さい頃は車のセールスマンとして夜遅くまで働いて平日に話したイメージのない父。
言葉少なめでも全国で500人以上のセールスマンのトップ30とかに選ばれた父。

僕がまだ大学生だった頃父に尋ねた事があります。

「俺もそうだけど父ちゃんは誰かに負けたくないとかいう負けず嫌いな感じはあまりしないんだけど何でそんなに営業として頑張れるの?」

すると父親はただ一言だけ
「信念だよ」と・・・


ふぅーん・・・・
その時はよく分からなかったけど今はなんとなく分かります。

今回数十年ぶりに生まれ育った三郷の家も見に行きました。

40年近く前にまだ30代そこそこだった母親が素人ながら図面を引いて作った設計図。
その設計図を元に作った家で4人家族を支えるという信念の為にとにかく必死に働いた父。

久しぶりにその古くなった家を見ると30代だった父と母の家族への想いが沢山詰まっているようで、とても哀しい思いと温かい思いを同時に感じる不思議な感覚に襲われました。

僕らは本当に愛されていたんだなと・・・。


大人になってからはそんなに沢山話さなかった唯一残った家族の妹とも今回結構色々な事を話しました。

「親に愛されたとか、認められたとか実感出来なくて大人になっても苦しむ人も少なくないのに・・俺らは本当に幸運だった・・・」

「どんな風に生きていても、いつ突然この世からいなくなるかも分からないならとにかくやりたい事をやって生きよう」

そしてその事を自分の子供たちにも伝えて行こうと・・・。

最後までトヨタの販売店の企業マンとして1社を全うした父からすれば新卒就職後数年で辞めてワーホリでオーストラリアに行き、戻ったと思ったらまたニュージーランドに行ってしまった僕の事を良しとはきっと思っていなかったかもしれません。

ましてやニュージーでは甘い考えで他人の言葉に夢見て事業を立ち上げて多くの人に迷惑を掛けながら会社を潰して借金も負った時もあったのですから・・・

それでも父は僕がやりたいと言い出した事を止める事はなかったしほとんど口を挟みませんでした。

「自分らしく・・・だけど日本にいる家族がいる事も忘れずに行動して欲しい」

オーストラリアに出る時にもらった手紙にはたった一言そう書かれていました。

母の手紙には「お父さんもお母さんもお前が好きなように生きている姿を見るのが本当に幸せなんだよ」とも。

オーストラリアに向かう飛行機の中で手紙を読み「僕はこの家族に生まれて来れて本当に幸せだ」と号泣していた事を今思い出します。


僕は父のような強い信念もなく、いつまでもあっち行ったりこっち行ったり・・とても良いお手本になるような良い父親ではないですが父や母が遺してくれたこの想いは子供たちにも伝えて行きたいです。
・・・


お葬式の時に高校時代からの父の親友の方が仰っていました。

「山ちゃん(父の事)はあなたたち家族がこっちに戻って来るのをとても楽しみにしてたんだよ・・・家なんかも改装してさ・・・」


確かにそうなんです。
僕らが住む予定をしていた2階の部屋は改装されたり物置小屋が出来ていたり・・・
エンディングノートには孫の大きくなるのを楽しみにしているとも書かれていました。
・・・


あともう数か月頑張ってくれてたら・・・
コロナがもう少し良好になっていたら・・・
そんな考えても仕方がない事を何度か考えて出て来た結果・・・
決めました。


孫と一緒に住む姿を見れなかったのはとても残念ですが父が待っていたこの葛飾に戻ってこようと。

ニュージーランドの事も色々と整理することがあるので子供たちの新学期が始まる4月前までには日本に家族で戻ってこようと思っています。

ですがニュージーランド完全撤退とは思っていなくて家は残していくので数年単位で日本へ戻るつもりです。

日本に戻ってから僕が何をするのか・・・

今回12月にお会いした人の中には一緒にこんな事をやりましょう!とかなり具体的なオファーを頂けたり、宿題をもらったこともあります。

もちろんニュージーランドにご縁もありますし、海外に住む人と日本を繋げたい思いも変わらず強いですし・・・人のコミュニティ作りのお手伝いもやり続けたいです。

父と違い、僕は相も変わらずあっち行ったり、こっち行ったりですが・・・「父と母の子だという事をこれからも忘れずに自分らしくやって行きたい」と思っています。

3月以降自分が何ができるか?何をやりたいか?
そんな事に向き合える隔離期間になればと思います。

色々なアイデア、オファーお待ちしております!

******

最後に・・・

今回葬儀のオーガナイズをして下さったまだ若い葬儀屋さんは数年前の祖父の葬式時から父と面識があったようで彼に言われました。

「お父様は初めにお会いした時から本当にやさしい方で・・・こんなやさしい方に僕は今までお会いした事ないくらい本当におやさしい方でした」と。

そっか・・・そんな風に言ってもらえる父の人生はきっと幸せだったのだな。
最後には「その人の生き方が人の感情や記憶と共に残るんだな」・・・と。


NZへの渡航3日前に納骨を終えて13年ぶりに父と母が再会しました。

今頃は30代に家を建てたのあの頃を懐かしんで色々な話をしているのかな・・・


ありがとう。
みっこも俺もこれからも2人の子供として精いっぱい生きるよ。

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