センス1つで進んだ先に

私は昔からTVドラマを余り見て来ていない。理由は特にない。なんとなく、だ。

見たとしたら、点けたままのTVで流れていたとき、部分的に見る程度。その中でも思い返す話がある。


現在、TVでも、私たちの身近なところにも、物事をとても上手にこなす人が少なからずいる。

私はその人、その人が上手く行っているやり方や、洗練されたもの選びについて、時々訊いてみることがある。

「それはどんな風にやってるんですか?」、

「それはどうして選んだんですか?」

私の場合、その人その人から、こういう返事が返ってくることがよくある。

「これ?なんとなく。」、

「何か、(こんな方が)気持ち良いなー』って。」

答えを聞いて、私は『格好良い。』と思うこともある。

こういう答え方をすることは、男性の方は特に心当たりがあるかも知れない。

それを説明することの野暮さや、

あえても含めて、それを説明せず、余裕そうにこなす事で能力について底知れない方に想像をかき立てられることがある。

照れ隠しや面倒臭さもあるのかもしれないけれど、俗に書くなら、『(この人のスキル、)ヤバくない?』といった感想を持ちやすくなる。

私たちの周りには、職業人が沢山いる。

上の質問をされて、答えることになった立場の人は、その能力不足を疑われることはまず無いかと考えられる。

そして、上の答え方をした人は『センスが良い人』というイメージを持たれることになるかと思う。

しかし、実情によってはその人にとってのそれがレッテルになって、重たくなることがあるかもしれない。


昔、私が見かけたTVの朝ドラで、『ほんまもん』という、池脇千鶴がヒロイン役のものがあった。

ネットで調べたところ、時代設定当時、女性がなるのは難しい、和食の、それも精進料理の料理人を目指す、という内容だったようだ。

私が最近も思い返すのは確か、この中の一つの話だ。

ヒロインの父親が和食の料理人をやっていて、お客に料理を出している。ベテランだ。ある日、異変が起こる。私の記憶ではお客が減ったのだったか、クレームをつけたのだったかは定かではない。

それからヒロインが異変に気付くのだけれど、父親は気付かない。指摘されても中々受け入れられない。それは何か。

父親の味付けが、知らず知らずの内におかしくなっていたのだ。

ベテランの料理人としてやって来ていた父親は、長年、自分の味覚のセンスを頼りに料理をしてきていた。料理人としてやって来られていたことにも、経験にも、何より自身の味覚のセンスに絶対の自信を持っていた。

しかし、父親の加齢による体力の衰えによるものか、その味覚のセンスがこれまでの水準から段々とずれていっていた。

父親のショックは相当大きかったのだろう。茫然と川へ入っていき、ヒロインに泣きながら止められる、そういう話だった様に記憶している。


この話のことを、私の中で『この先、自分にも起こりうる話』だと気付いたのは、大人になってからだった。

見渡せば、一見センスでこなしている人は確かに少なくない。答えを訊いても曖昧だったりする。真実はわからないけれど、こなせている事実は確かにある。

ただ、私の中で再現性、発展性を考えると、『それはこの先も持続が可能だろうか?』という疑問が浮かぶようになった。

私自身も、仕事や家事で偶然起こった、やってみたことが案外上手くいった、ということが何度かある。時間があるときにそのことについて、書いたりしながら、思い返すようになったのだった。

一方で、久しぶりに運動をした時に、今まで通りの理想のイメージでは結果が出なくなることも、最近は出て来た。似た話は年長者からもよく聞かれる。

感性によるセンスは、そのままではいつかずれる。

それを避けるためには、自分の中で説明できる程度に、理解しておく必要がある。把握する、ということだ。それには数値化も効果がある。

私は言葉で説明し過ぎるきらいがあるようだ。

それなりにも理由はある。

私には、上手くいったやり方を言語化する、そっくり真似する、数値を探す、それらが向いていたようだった。

私たちに感性は必要だ。

ただ、若い頃からそのセンスに無頓着に体重を多く預けていると、そのずれと共に、倒れてしまうことがいずれ起こりうる。

何より、他の人に教えることが出来ない。

センス倒れしたところを人に教訓として見せることになるか、愚痴のように教訓を説教することになるか。

しかしそれは、世の中においてはありきたりな話になるかもしれない。


例えば、私たちは音楽アプリのブックマークに楽曲を加えるとき、「何か、気持ちいいから」というところで思考停止していないだろうか?

『センスが良い』その人がそう答えたとして、その答えの実情がただの見栄だった場合は、その人の能力のメッキはいずれ剥がれていくだろう、と私には予想がつく。

恐らく、そのセンスの密度は薄いか、センスだけで選んだそれは、お洒落なだけのチョイスになっていくだろうと考えられる。

ただし、『ほんまもん』は確かにいる。何となくなのか、上手くいって、ずっとやっていけてしまう人が。そういう人を『天才』と呼ぶのだろうと思う。


私たちの中で『なにか良いな』と感じたとき、その『なにか』は何によって起こったのだろうか?

自分で思ったことを改めて考えてみるのも良いかもしれない。


ちなみに、私がTVドラマを見ない理由は、なんとなく、時間が取られてしまうのが嫌だからだ。それも連続で(ドラマが気に入った場合に限る)。

特別、時間を大事に出来ている方ではないけれど、その時間があれば、もっとしたいことに回したいのだ。

例えば、ぼーっと休むとか、文章を書くとか。

私はこれで良いのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?