単純な問いで生きのこる
コロナウィルスが流行っている、との報道を見る。
現在はその問題の中にあって、身近な友人を誘って、食事や遊びに出掛けようとする人もいる。
断り辛く、一方で楽しみが欲しいのかもしれない私たち。
誘う人が何を思っているのか、責めることはしない。
『断ることを考える、こちらの方がまずいのだろうか?』
その囲いの中にいると、そう思うことがある。
その中で、多勢に無勢という事態になりやすい。
または、ある環境の中でいじめにあっている人。
あるいは、「勉強は休んで遊ぼう。」
やはり、分が悪いことも多い。
将来や生きることが辛いとき。
私は自信が余り無いときがある。
そこで、気持ちを持つ為の単純な考え方を考えた。敢えて白黒つけてみる。
『99%の人が正しいとして、選んでいる答えがある。その答えは正しいか、間違いか?』
これを理屈で考えてみる。
多数である、99%の人が選んだ答えが正しいという『可能性(パーセンテージ)』は高いかもしれない。
対して、『正しいか、間違いか』という二択では、『100%そうである(絶対)』を選ぶことになる。
どちらであるか。その答えは『不明』だ。
その時点で可能性を上げる為に根拠を数多く集めても、その根拠が『100%そうである(絶対)』に届くことは無い。
もし、多数の人があなたを間違いへと促しても、その人達はあなたの選択と結果の責任を取れない。
多数が間違っていれば、その人達は共犯だ。
自身を守る為に、責任を転嫁しあうかもしれない。
私たちは1%の選択権を持っている。
もう書くまでもないことだけれど、『100%正しい(間違い)』という結果が判るのは、後になってからだ。
1%の選択が正しかったとき、『99%の人の正しい』選択は、間違いを取ったことになる。
どちらにあっても、『正しい』/ 『間違い』は公平に訪れる。
私たちの誰もがその立場にいることは変わらない。
こう考えてみて、少しでも気持ちを持ち直せたら幸いだ。
私のことになるけれど、
この場合、判断は保留する。
ここに来るまでの間に、気持ちが揺らがなくなっていくことが出来ている。
生き残ってきた先で、人の影響は絶対でもないことがいつの間にか腑に落ちたのかもしれない。
集団に疑問を持つ様になって、随分と経つ。
そこに残れなかった疎外感は今でも残っている。
絶対正しい、とは思わない。
だけれど、自分と集団の邂逅が近くに来ていることを最近になって実感する。
以前は持っていなかった価値観を携えて。
価値観が少数であれど、多数であれど、
私たちが意思を持って普通の生活を続けている限り、結果は自然とあるところに収まっていくのだと考えている。
長い目で見て不都合なことは、その性質上、これから不利になっていくからだ。
外に絶対を探し求めない。
そして、自分がそこに存在するパーセンテージを人に委ねない。
そうして生き残れば、落ち着いていく。
物事に絶対は無いのだ。そう思う。
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