私の頭の中の取説

発達障がいの私。そして、同じ障がいの認定を受けている知人、家族を通して気付いた、物事の見え方の整理。

始めに結論を書く。

物事を見た時に、その出来事1つ1つをそれぞれ別の部屋に入れて考える性質がある。

ややフィクションの実例を2つ挙げる。

まず、ツアーのときの話。

・『A県にツアーに行って、立ち寄った美術館で作品を見ている内に、集合時間になり、遅刻してしまった。』

・『ツアーに参加して、B県に行った。物産館でトイレに行ったり、商品を見ていたりしたら、集合時間に遅刻してしまった。』

振り返るとき、この2つの出来事についての問題について書くと、

『ツアーの旅行先でマイペースに過ごしていたら、集合時間を忘れて遅刻した。』となる。

しかし、当人が話すと、

「○県の話だから違う。」、「あれは物産館の話で」、「途中、トイレに行ったから」となった。

次は知人、友だち同士の話。

・Aさんという人がいて、知人はその人のことについて、ネガティヴな評価をする発言をする傾向がある。ややセンスが良いとは言い難いAさん。

『Aさんが好きそうなファッション』、
『味がわからない人、そういう人』等、非道いことを言う。

それで、「あなたはAさんのことが嫌い」だと言うと、「嫌いだとは言っていない」と怒る。


『「嫌い」という言葉を使っていない』=「嫌いだとは言っていない」ことになる』という結論を出した。

付け加えて、『だから、その感情はない』と口にする。

私は知人が既に内容で感情を口にしていると考えている。しかし、当人の感情を否定しないようにする必要がある。


この例で話をすると、
知人の中で『理不尽なほど否定に偏った発言』と、『その人が嫌い』であることは別物として分けられている。

傍目には結果が似ていても、当人の中で話す順序や過程が違っていたり、単語の詳細な意味が違っていたりすると、それぞれ別物の話として頭の中に出来上がる。


他の例では、

・サーキュレーターと扇風機を『全くの別物』として認識していることがあった。

因みに私は自宅の室内で洗濯物を干すとき、よくエアコンと扇風機を併用する。
エアコンは除湿にして、扇風機はその風を循環させるためだ。
黄砂なども特にない晴れた日にはエアコンは点けず、窓を開けても良い。

ある日、私の扇風機の使い方について、指摘を受けた。

知人が話すには、

『サーキュレーターが風を循環させる役割であって、扇風機は違う』とのことだった。


私は『どちらも羽根の付いたものを電気で旋風させるのだから、仕組みとしては同じ』だと考えていて、それを口にしたのだけれど、知人の認識は変わらなかった。


最近になって、ネットの記事でサーキュレーターと扇風機についての説明を読んだことがあった。

それによると、『厳密には発生させる風の質が違う』ということだった。

知人の指摘は作りや目的の違いについてだった。厳密には私は間違っていた。

とはいえ、風を送ることが出来ないかというとそうでもなく、私は相変わらず洗濯物の室内干しのときには扇風機を使っている。

以上からサーキュレーターと扇風機、それぞれが別の部屋に収まっていて、それらの記憶に共通するものとして、各部屋の壁を越えて一緒にすることが余り無いことに気付いた。


私が知る限りの周囲では、
障がいの特性やその傾向が見られる人は、それぞれの部屋に入れた、エピソード、記憶のパーツの1つ1つが完璧にはまった状態でこその認識を続ける。
もし、パーツが1つ違えば、それは別物になりがちだ。


何故だろうか?

一緒にすると、生理的に気持ちが悪いからだ。
逆にいうと、それだけのことでもある。
こだわる場合はそれについて我慢や無視が出来ない。


当人からすると、自分の気持ちの過程を無視して簡潔に要約されてしまうこと自体、不快なもの。
私は記憶が完成しているところを綺麗だと思う。
出来る限り、他者のそれをそっとしておける様になりたいと思う。


私にもこういった特徴はある。
ただ、他の人や本から記憶の扱い方を教わった。


物事を反省するときは、各部屋にある記憶を一緒にすることの違和感があれど、それに一旦目をつぶって、共通する部分を探すことから始める。

そして、私は会ったことがないけれど、この知人から聞いた知人への恩師のアドバイスがある。

『どんなに行き詰まっていても、出来ることを探そう』


やり方や考え方を1つ知ることでも視界は開ける。
障がいの特性はこうやって克服出来ることがあるかもしれない。
思い込みや偏見から楽になるためにも、知ることを続けようと思う。

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