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大林宣彦監督を偲んで。『デビュー作の風景 日本映画監督77人の青春』より「大林宣彦 『HOUSE・ハウス』」、全文公開。

デビュー作の風景_oobayashikantoku

大林宣彦
HOUSE・ハウス 1977

 連載の第一回目は、この作品から始まった。だからあえて製作年度順を無視して、単行本でもここから始めたい。
 77年4月4日――この日、僕は生まれてはじめて映画の撮影現場を見学した。その映画は大林宣彦監督『HOUSE・ハウス』だった。「キネマ旬報」編集部に誘われて、「読者による『HOUSE』撮影見学記」という記事の取材のためだった。
 やはり読者だった内海陽子さんと同行し、この連載のカットを担当していただく宮崎祐治さんとは、この日が初対面だった。東宝撮影所のスタジオの中には、今は亡き薩谷和夫氏がデザインされた蔦のからまる羽臼(ハウス)屋敷のセットが聳え立ち、7人の女の子たちがやって来る場面が撮影されていた。目の前で、映画が撮影されていることにも興奮したが、もっと興奮させられたのは、これが大林監督の商業用映画デビュー作であるという事実だった。
 “C M界の鬼才”による初の劇場用映画というふれこみだったが、僕にとっては大林監督は、自主上映会の会場で何度も見た『EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(67)の作者に尽きた。あれは、ロジェ・ヴァディム監督『血とバラ』(60)に捧げられた甘美なオマージュであり、何よりも「映画をこんな風に自由奔放に撮ってもいいのか!」と観客をして絶句させるほど、ありとあらゆる映像テクニックが集中的に詰め込まれた青春映画の傑作でもあった。
 しかし70年代半ばには、大林監督は何本かの短篇を発表されてはいたが、映画作家としての影は薄く、もはや『ドラキュラ』のような映画は二度と作られないのではないかと勝手に危惧していた。そこに『HOUSE・ハウス』製作のニュースである。しかもATGではなく、全国東宝系劇場で一斉公開。偶然の積み重ねで撮影現場を見ることができた喜びは、今でも忘れられない。
 『HOUSE・ハウス』は、生き物のような“家”が少女たちを次から次へと食べてしまう奇想天外なファンタジーだが、そもそもは大林監督の愛娘で、当時13歳だった千茱萸(ちぐみ)さんの“鏡の中のもうひとりの自分が歯をむいて襲ってきたらコワイぞ”という言葉が、はじまりだったという。次々にアイデアが生まれて、だから原案は“大林千茱萸”。これを基に、"新人"脚本家の桂千穂さんと大林監督が喫茶店の片隅で語り合うこと2時間。怪奇映画に造詣の深い桂さんの作りあげたストーリーは、東宝の企画会議で採用されたものの、現在とはちがって、撮影所出身者以外の“外部の監督”が撮影所で映画を撮るのは、もってのほかだった時代だ。
 有名な話では同じ東宝撮影所で、58年に石原慎太郎氏が『若い獣』で監督に起用されることが決まった時、東宝の助監督さんたちが自分たちをさしおいて、外部の、しかも映画にはアマチュアの人間を監督として迎えるのは不当だとして猛反対し、揉めに揉めたという前例がある。“CM界の鬼才”とはいえ、まだ市川準監督や中島哲也監督の登場までには時間があり、撮影所内部からは反撥の声もあがったらしい。岡本喜八監督らの説得で、『HOUSE・ハウス』は“撮影所の映画”として実現するのだが、企画が通り撮影に入るまでの2年間、雑誌「少年マガジン」と「セブンティーン」誌上で漫画化され、週刊誌やスポーツ紙で『HOUSE・ハウス』映画化に向けての記事が続々と掲載された。世間の動きが映画化を促したのである。
 ニッポン放送では、「オールナイトニッポン」特別番組として、4時間のラジオドラマ『HOUSE・ハウス』が、76年11月27日に生放送された。もちろん大林監督が演出を担当したが、この時の構成者が放送作家時代の景山民夫氏。7人のハウス・ガールズたちは、秋野暢子、岡田奈々、木之内みどり、林寛子、松原愛、松本ちえこ、三木聖子(五十音順)というメンバーだった。これが、かつてない大反響を呼び、映画化が正式に決定した。
 200人近いオーディションから選ばれた映画版の少女たちは、池上季実子、大場久美子、佐藤美恵子、神保美喜、田中エリ子、松原愛、宮子昌代(五十音順)だった。20年後の今、現役で活躍中の女優さんもいれば、名前を聞かなくなった人もいるが、あの時の7人は本当にキラキラと輝いていた。東宝撮影所の中庭の陽だまりで、はしゃいでいた7人の姿は、今でも目に焼き付いている。「16〜17歳の女の子の生理をそのまま映像化することによって非現実の世界を現出させたい」という監督の当時の言葉は、今見直しても古びることなく映画を息づかせている。
 この時、僕らを撮影所で案内してくれた宣伝担当が、『ゴジラ』シリーズや、『モスラ』(96)のプロデューサーとして活躍した富山省吾さんであり、チーフ助監督が『泥の河』(81)でデビューし、『眠る男』(96)を監督した小栗康平氏である。
 『HOUSE・ハウス』は77年7月30日に、山口百恵・三浦友和主演『泥だらけの純情』と2本立てで公開されたが、“映画”というより“事件”だった。劇場では、若い観客たちが歓声を上げていた。この年の邦画興行ベスト・テン第7位で、配収は9億8500万円。大ヒットである。キネマ旬報ベスト・テンでは第21位。これは80年代にかけて若手の選考委員が参加する以前の状況にしては大健闘であり、何より読者選考ベスト・テンでは第4位にランクされているのを見ても、当時『HOUSE・ハウス』の人気が、いかに高かったかが分かる。
 『HOUSE・ハウス』は、それ以後の日本映画の流れを変え、“外部の監督”の突破口になった。8ミリや16ミリを撮っていた大森一樹、石井聰亙、森田芳光ら各監督が本格的に既成の映画界に参入したのは、もしくは、そうした場を獲得できるようになったのは、『HOUSE・ハウス』の成功が大きく影響している。
 『HOUSE・ハウス』には、のちの大森作品――特に『転校生』(82)、『時をかける少女』(83)、『さびしんぼう』(85)の“尾道三部作”、『ふたり』(91)や『あした』(95)の“新・尾道三部作”に連なるものが明確に描かれている。ことにラストのモノローグには大林映画の主題が集約されている。
 ――たとえ肉体が滅んでも、人はいつまでも誰かの心の中に、その人への想いとともに生き続けている。だから愛の物語はいつまでも語り継がれていかなければいけない。愛する人の命を永遠に生きながらえさせるために。永遠の命……、失われることのない人への想い。たった一つの約束……それは愛。(大林宣彦著「4/9の言葉」創拓社刊)

デビュー作の風景

デビュー作の風景 日本映画監督77人の青春

野村正昭 著
宮崎祐治 絵

野村正昭(のむら・まさあき)
映画評論家。1954年生まれ。山口県出身。東映洋画宣伝室で角川映画や、ジャッキー・チェン主演の香港映画の宣伝に携わったのち、広告代理店勤務を経て、映画評論家に。キネマ旬報ベストテン、毎日映画コンクール、芸術選奨などの選考委員も。近著では『曽根中生自伝』『まわり舞台の上で 荒木一郎』(ともに文遊社)、『映画監督 佐藤純彌 映画(シネマ)よ憤怒の河を渉れ』(DU BOOKS)のインタビュアーを務める。年間映画鑑賞本数1,000本を超え、日本で一番映画を観ている映画評論家。
宮崎祐治(みやざき・ゆうじ)
イラストレーター。1955年生まれ。東京都出身。武蔵野美術大学在学中に『キネマ旬報』誌への投稿をきっかけに、映画イラストレーションを発表するように。映像制作会社でCMや番組のディレクターを行う傍ら、映画イラストレーターとしての独自の地位を確立。2016年には日本映画ペンクラブ奨励賞を受賞。著書に『東京映画地図』(キネマ旬報社)、『鎌倉映画地図』(鎌倉市川喜多映画記念館)などがある。



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