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スポーツはいかにして男の子をつくりあげるのか~国際男性デー記念『ボーイズ』より「『男』になれ」をためし読み公開

 本日11月19日は「国際男性デー」

 そこでこのたびは、マスキュリニティと男の子たちをとりまく問題を考えた一冊『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(レイチェル・ギーザ、冨田直子訳)に収録の一編「『男』になれ――スポーツはいかにして男の子をつくりあげるのか」より、一部抜粋をためし読み公開します。

ボーイズ(7刷)

女の子は生来的に数学が苦手だとか、月経周期のせいで優れたリーダーにはなれないという意見に対しては、批判と、豊富な証拠に根差した反論が向けられる。しかし男の子と男性に関しては、私たちはいまだに、彼らの問題点も短所も、そして長所も、生物学的な結果なのだという考えにしがみついている。女らしさはつくられたものだが、男らしさは生まれつき、というわけだ(本文より)

 今回ためし読み公開する「『男』になれ――スポーツはいかにして男の子をつくりあげるのか」では、スポーツと「男らしさ」の関係性を探っています。日本では今夏、世界的なスポーツの祭典である東京オリンピックが開催されましたが、〈スポーツと「男らしさ」の関係〉と聞いて、大のラグビー愛好会としても知られる五輪・パラリンピック大会組織委員会の前会長による女性蔑視発言を思い出すひとも少なくないかもしれません。オリンピック・イヤーである今年の国際男性デーは、ぜひスポーツと「男らしさ」について考えてみませんか。

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「男」になれ
――スポーツはいかにして男の子をつくりあげるのか

文=レイチェル・ギーザ 訳=冨田直子

 近代チームスポーツが誕生し、現代の私たちがサッカー、野球、フットボール、ラグビー、バスケットボール、ホッケーなどとして認識するかたちになり始めたのは、1800年代のことである。スポーツの一般人気を高めた大きなきっかけのひとつは、意外なことに、宗教的価値観についての小説であった。トマス・ヒューズが1857年に著して大きな反響を生んだ『トム・ブラウンの学校生活』は、イギリス上流階級の子息が学ぶ寮制男子校を舞台に、荒っぽい男の子たちが立派なキリスト教徒の紳士へと変身していく過程を描いた物語である。宗教的なメッセージはさておき、この小説が人気となった理由は、ヒューズの描き出すスポーツ――素手のボクシング、ラグビー、徒競走などの生き生きとした描写や、身体の強靭さ、チームワーク、仲間との協力といった美徳の強調――にあった。読者を印象付けたのは、忠誠心あふれる仲間とともにフィールドに出てスポーツをすることで育まれる、恐れを知らない剛健な若者たちの姿である。

 道徳的に健全な余暇活動として、スポーツの形式化が進んだが、それを後押ししたのが、ヴィクトリア朝時代のセックスに対する潔癖性であった。少年の性的欲望は、破壊的で危険なものだと見なされていた。同性に対するあこがれや恋愛感情が盛んに見られる寄宿男子校ではことさら、スポーツは、特に栄誉や責務といった価値観と組み合わされることで、性衝動のエネルギーを消費し昇華するはけ口となると考えられていた。もちろん、少年たちが毎日のようにロッカールームで心を通わせ、フィールドで取っ組み合っていたことを考えれば、そのような効果があったとはとても言えないのだが。この頃以来ずっと、男性同士の親密さとホモフォビアとの緊張関係は、スポーツにとって悩ましい問題であり続けている。

 当初、スポーツは社会的に優位な少年たち(白人でキリスト教徒で上流階級)のための活動だった。19世紀末には、ラグビー、ボート競技、クリケットは教養ある若者の証しとなった。当時、イギリスの超上流階級の少年たちが通うイートン校では、壁に「この寮の下級生でフットボールを1日1回、半休日には1日2回しない者は全員、半クラウンの罰金と足蹴の刑に処す」という張り紙がされていたほどである。同時期、北米やヨーロッパなどでは、サッカー、ホッケー、ラクロス、陸上競技、ボクシングが組織化され、ルールやクラブやチームが形成されていった。

 労働者階級の少年たちや、イギリス植民地の少年たち、アメリカやカナダに住む黒人や先住民族の少年たちにおいては、スポーツの狙いは異なっていた。はじめは、ヴィクトリア朝時代のアマチュアリズムの信念――スポーツをすることで金銭を受け取ってはならないという考え――に基づいて、組織スポーツやクラブスポーツに報酬なしで参加でき、学校や大学でトレーニングや指導を受けられるだけの金銭的余裕がある者以外は、みなスポーツから排除されていた(現在のスポーツ界でも、大学に巨額の収入をもたらしているアメリカの学生アスリートたちの労力に報酬を支払うべきだという声が高まる中で、アマチュアリズムに織り込まれた社会階層差別は続いている)。労働者階級や有色人種の若者が組織スポーツに参加することが許された最初の理由は、彼らを社会化し、当時の権力構造の仕組みを叩き込むためであった。スポーツのコーチや審判を務めていたのは、慈善団体に所属する白人の成人男性たちだ。そんな慈善団体のひとつ、キリスト教青年会(YMCA)は、産業革命時代の1844年のロンドンで、田舎から仕事を求めて都市に流れ込んで来る貧しい若者たちを助けたいと考えた熱烈なキリスト教徒、ジョージ・ウィリアムズによって設立された。その10年後には、YMCAはヨーロッパ各地からアメリカ、カナダ、オーストラリアにまで広まり、「筋肉的キリスト教」と呼ばれる宗教思想を取り入れるようになった。これは、スポーツ・チームワーク・犠牲と義務の精神を尊重し、あらゆる女性的なものや極端に知性主義的なものに対して懐疑的な思想である(1891年にバスケットボールを考案したカナダ人の長老教会派牧師で教育者のジェームズ・ネイスミスも筋肉的キリスト教の信奉者であった)。

 スポーツ、特にラグビーは、若者に宗教的価値観を教え込むほか、男の子たち、男性たちにとって、女性のあいだに高まってきた独立気運に対抗するための手段にもなった。歴史学や社会学の専門家が指摘するように、ラグビーの粗野で荒々しい伝統が発達した時期と、女性の参政権を求める運動が活発になった時期とはぴったり一致する。イギリスで女性参政権活動家たちがフェンスに自分の体を縛り付けたり、ハンガーストライキをしたり、教会を爆破したり、郵便ポストに放火したりと、まさにジェンダー戦争を仕掛けていたその時、イギリス人男性たちはスポーツというシェルターに退却していた。ラグビーは、男性だけのスポーツであることに加え、女性に向かって尻を出して見せたり、下品な酒宴の歌を歌ったりという付随的活動の効果もあり、男性たちがマスキュリニティを主張する手段となったのだ。

 このほかに、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、スポーツに関して大きな流れが2つ起こった。フランスでは、貴族で学者のピエール・ド・クーベルタンが、フランスの若い男性たちは肉体的にひ弱で、ほかのヨーロッパの若者に比べて劣っているという考えに取りつかれていた。フランス男児たちを鍛え直すため、体育教育の新しいモデルを探っていたときに彼が出会ったのが、小説『トム・ブラウンの学校生活』だった。クーベルタンはイギリスを訪れていくつか寄宿学校を見学したのち、フランスに戻り、古代オリンピックの復興という大志の実現に向けて着手した。クーベルタンは1896年の初回オリンピック大会から意図的に女性の参加を禁じ、その後も、生涯の大半にわたり女性の参加に反対し続けた。彼も、同時代の男性たちの多くと同様に、スポーツは男性の生得的権利であると信じ、女性は生物学的に言って優れた運動能力を発揮することは不可能だと主張していた。彼はまた、女性が競技に参加する姿は道徳に反し、扇情的な効果を引き起こすと考えていた。「フットボールやボクシングをしたい婦人がいるなら、させればいい。ただし、観客がいない場所で行なうこと。なぜなら、そのような試合に集まる観客の目的は、スポーツ観戦ではないからだ」。

 アメリカでは、19世紀前半の戦争や領土拡大がひと段落し、若い白人男性たちにとって能力と精力を発揮できる舞台が少なくなっていた。そんなときに登場したのが、ラグビーから派生したアメリカンフットボールで、軍の陣形のようなフォーメーションや、陣地を進めたり奪ったりするゲームであるという点で、戦闘や開拓地での冒険に代わる恰好のスポーツになった。史上初めて行なわれた試合は、1869年のラトガース大学対プリンストン大学戦であった。初期の試合は非常に危険で、パスがほとんどなく乱闘三昧という、まさに流血スポーツであった。パイルアップになると、選手たちは殴りかかり、噛みつき、首を絞め合った。1900年から1905年までのあいだに、少なくとも45人の選手が、首や背中の骨折を含む負傷が原因で死亡している。

 1905年頃にはすでにアメリカンフットボールを法律で禁止すべきだという運動が起こっており、いくつかの大学やカレッジでは打ち切り寸前となっていたが、頑健でアメリカらしい男のスポーツであるフットボールを存続させたい、と考えたセオドア・ルーズベルト大統領が介入してこれを食い止めた。ルーズベルトは、男らしさに対して強いこだわりをもっていた。子ども時代の彼は、痩せっぽちで喘息もちで、「四つ目」とあだ名される近眼だったが、ボクシングやレスリングの訓練を通して、大人になる頃には狩猟や乗馬の得意な男らしい男として自己変革を遂げている。

 新ルールのアメリカン・フットボールでは、選手の配置に間隔をとり、パスを重視して、プレイを広く展開できるようになった。トップはアイビーリーグ大学のチームが占めていたが、革新点の多くを生み出したのは、ペンシルベニア州の小さな高校、カーライル・インディアン工業高校である。カナダの寄宿学校と同様に、カーライル校はネイティブアメリカンの子どもたちを「文明化する」目的で1879年につくられ、子どもたちは髪を切り、ヨーロッパ風の服装をして、英語だけを話すことを強制されていた。フットボールは同化推進のために用いられた手段のひとつだったのだが、彼らはこのスポーツに秀でるようになった。皮肉にも、フォワードパスやスパイラルをかけたオーバーハンド投法などを考案して、フットボールに華やかさとテクニックの面白みを加え、残忍だったスポーツをより洗練されたものに変えたのは、これらの「野蛮な」生徒たちなのである。ハンドオフするふりをして後退しパスを投げるプレイを初めて行なったのも、カーライルのクオーターバックだ。

 資金不足、栄養不足のカーライルの痩せた選手たちは、ハーバード大やペンシルベニア大といった強豪を打ち負かしていった。カーライルの生徒たちにとって、フィールドでの勝利は、部族の土地を奪った人々の息子や孫たちと戦って自分たちの人間性と能力を証明する手段だったのだ。1912年には、奇しくも歴史の再訪と言うべき、カーライル対米陸軍士官学校の試合が実現した。そのわずか22年前に、サウスダコタ州のウンデッド・ニー・クリークで、ラコタ族の大人と子ども合わせて150人以上が、米軍の第7騎兵隊によって虐殺されている(カーライルの生徒の多くはラコタ族だった)。陸軍士官学校と対戦する前の週、カーライルの伝説的コーチ、ポップ・ワーナーは、チームに向かってこう言った。「この試合への心構えは、私が語るまでもないだろう。部屋に戻って歴史の本を読めばいい」。カーライルは27対6で士官学校を破った。

 カーライルのもたらした改良点がなければ、フットボールという競技は消滅していたかもしれない。それにもかかわらず、カーライルの影響力はほとんど忘れられている。さらに屈辱的なのは、ほかのプロスポーツにも言えることだが、プロフットボール界には、ブレーブスやレッドスキンズのように、先住民族をモチーフとした不快なマスコットやロゴがあふれていることだ。これらの、どの部族とも関係のない総称化されたインディアン戦士を描いたマンガ風イメージは、先住民族アスリートたちの貢献を抹消すると同時に、先住民族の人々を嘲るものにほかならない。

 このような、暴力、性差別、ホモフォビア、人種差別、エリート主義にまみれた歴史も、スポーツがマスキュリニティの概念をつくりあげてきた過程の一部である。これまでの150年間を通して、スポーツは、何かと不安な大人たちによって、青少年を鍛え、愛国心を表明し、人種差別的態度を維持し、恨みを晴らし、性衝動を抑制し、地元経済を活性化するために利用されてきた。しかし何よりスポーツは、「ストイックで、肉体的恐怖をもたず、支配のために突き進む」という、ごく限定的なタイプの男らしさを表現するために使われてきたのである。
(この続きは『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』にて)

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ボーイズ(7刷)

《書誌情報》
『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』
レイチェル・ギーザ 著 冨田直子 訳
四六・並製・376頁
ISBN: 9784866470887
本体2,800円+税
https://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK228
好評7刷

〈内容紹介〉
自身も男の子の親である著者のギーザは、教育者や心理学者などの専門家、子どもを持つ親、そして男の子たち自身へのインタビューを含む広範なリサーチをもとに、マスキュリニティと男の子たちをとりまく問題を詳細に検討。
ジャーナリスト且つ等身大の母親が、現代のリアルな「男の子」に切り込む、明晰で爽快なノンフィクション。

〈目次〉
はじめに――今、男の子の育て方に何が起こっているのか?
1章 男の子らしさという名の牢獄――つくられるマスキュリニティ
2章 本当に「生まれつき」?――ジェンダーと性別の科学を考える
3章 男の子と友情――親密性の希求とホモフォビアの壁
4章 ボーイ・クライシス――学校教育から本当に取り残されているのは誰?
5章 「男」になれ――スポーツはいかにして男の子をつくりあげるのか
6章 ゲームボーイズ――男の子とポピュラーカルチャー
7章 男らしさの仮面を脱いで――男の子とセックスについて話すには
8章 終わりに――ボーイ・ボックスの外へ

■書評掲載■
・共同通信(2019.4.7)|親として、大人として、男の子に語りかけるべきことは、少なくとも「男の子だから女の子に優しくしなさい」ではないのだ|紫原明子氏
・日本経済新聞(2019.4.27)|フェミニズムはこうした「男性性」のもたらす負の側面を明らかにしてきたものの、その裏で見過ごされがちだったのが、男の子がもっか陥っている苦境への対応策だと著者は指摘する
・エッセ(2019年7月号)|男の子と女の子では脳からして違う? 男の子は生まれつき不器用で乱暴で口下手? ゲームは男の子に有害? 男の子がポルノを好むのは自然の欲求? 読み進めるうちに、実は自分の中に確かにある差別意識に気付かされます|柚木麻子氏
・朝日新聞(2020.6.6)|一ページ読むごとに私は拘束衣を脱がせてもらうような解放を味わった。男は自然と男になるのではない|星野智幸氏

♢はじめに~終わりに~清田隆之さんによる書評をお読みいただけます♢



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