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『ビートルズ ’66 彼らが「アイドル」を辞めた年』刊行記念 序章 一部公開!

新曲を含む赤盤・青盤2023年EDITIONのリリースが発表されました。そして、本日10/27、『ビートルズ ’66 彼らが「アイドル」を辞めた年』待望の日本版が発売されます!関係者への詳細なインタビューや文献から、1か月ごとに丹念に読み解いて積み上げた、新事実を含む12か月の実録。
アイドルから、後世に残るアーティストへの変化の萌芽がここにある!

スティーヴ・ターナー著、奥田祐士訳
『ビートルズ’66 彼らが「アイドル」を辞めた年』

ここでは、発売を記念して序章の一部を、試し読み公開いたします。ぜひご一読し、「ビートルズの秋」を思いっきり味わってください。

             *  *  *

序章 なぜ彼らは芸能人から芸術家に変貌できたのか?

年代のオレたちはみんなこの船に乗っていた。
オレたちの世代という──
新世界を見つけ出そうとしていた船に。
そしてザ・ビートルズはその船の見張り台にいた。
                ──ジョン、1974年

 1966年がパフォーマー、そしてレコーディング・アーティストとしてのザ・ビートルズにとって、転機となる年だったことに疑いの余地はない。それ以前の彼らはそろいのスーツでステージに立ち、会場を満杯にした絶叫する(大半は女性の)ティーンエイジャー相手にプレイし、おふざけ映画で自分たち自身を演じ、主に恋愛を取り上げた陽気な曲を書く、リヴァプールからやって来た4人の愛すべき若者だった。1966年以降の彼らはもはやツアーに出ず、チェルシーのブティックで個々に選んだ服を着用し、自分たちの内面や社会の性質を探究した曲を書き、各国の政府から既成の秩序に対する脅威と見なされることも多い、スタジオに軸足を置く本格派のミュージシャンだった。

 その12か月間に、4人は彼らほど回復力(レジリエンス)や先見力(ヴ ィジョン)に恵まれていない男たちなら、潰されていても不思議がないほどの変化を経験した。ジョンとシンシアの結婚、そしてポールとジェーン・アッシャーの同棲生活は崩壊に向かっていた。ジョンが濫用しはじめたLSDは、彼の自尊心やアイデンティティの意識に影響をおよぼした。「アシッドでオレは、自分のエゴを破壊すべきだというメッセージを受け取った」と彼は1970年に「ローリングストーン」誌で語っている。「だからオレはそうした」。グループとしての彼らは、日本、アメリカ、フィリピンで生命の危険にさらされ、教会の指導者、議員、政府、急進的な政治グループ、そしてクー・クラックス・クランから非難を浴びた。評論家筋の評価は上がったものの、自分たちの音楽出版社における持ち分は低下した。レコードは売れ、レコードが燃やされた。

 それはリンゴがチャーリー・チャップリン、ポールが哲学者のバートランド・ラッセル、ジョージがシタールの巨匠、ラヴィ・シャンカール、そしてジョンがヨーコ・オノと会った年だった。それはまたグループが、彼らの最高傑作と多くの評論家が認めるアルバム《リボルバー(Revolver)》をレコーディングし、ザ・ビートルズの個人的なレガシーばかりか、ロック・アルバムの歴史においても一二を争う評価を得るもう1枚のLP《サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepperʼs Lonely Hearts Club Band)》に着手した年でもあった。

 ではなぜ英国の北部にある労働者階級の都市から登場した、さほど学歴のないこの4人組が、1966年にかくも画期的なレコードをつくり出し、1967年にも同様の偉業を達成する下準備をすることができたのだろう?ザ・ビートルズはなぜかくも短い時間にチャート指向のポップから進歩的なロックへ、ハイスクールの憧れから大学キャンパスでの敬意へと移行することができたのか? またどういう創造的、社会的な力の組み合わせが、彼らを芸能人(アーティースト)からアーティストに変貌させたのか?

 ザ・ビートルズの全活動を追った書籍では、この時期は30ページから40ページに圧縮せざるを得なくなる。どれだけ優れた著者であっても、ザ・ビートルズ最後の全米ツアーは数パラグラフで片づけ、彼らがレコーディングも演奏活動もしていない期間には、触れずにすませることを余儀なくされてきた。

 だがこの過渡期的な時代を完全に理解する方法は、ペースを落として細部をじっくり見直すこと以外にない。グループが人前に出ていなかった時期は、仕事をしていた時期に負けず劣らず多くを物語っているが、それは彼らが新たに見いだした自由を享受し、個人的な情熱を探究したり、個々の視点を育んだりしていたのがこの時期だったからだ。その後、彼らが自分たち自身の創造物に採り入れるアートや思想を吸収していたのは、カメラマンや警備員のいない場だったのである。

 最高にクリエイティヴなミュージシャン、最終的に自分たちのジャンルを改変する人々は、往々にして合成者(シンセサイザー)だ、とザ・バーズのメンバーでザ・ビートルズの友人だったデイヴィッド・クロズビーは主張してきた。「形式上、おたがいと接することのなかった、まったく異なる複数の流れを取り上げることで、人は合成者となり、新たな形式をつくり出す」と彼は語っている。「ザ・ビートルズはフォーク・ミュージックのコード進行とロックのバックビートを取り上げて、新たな形式を合成した」

 しかしこうした融合が、意識的におこなわれることはめったにない。やはりクロズビーが述べているように、音楽系のアーティストは、さまざまな形態の音楽を聴くと、その影響を自然な形でクリエイティヴな意識に浸透させていく。ザ・バーズはラヴィ・シャンカールとジョン・コルトレーンを聴き、それがきっかけで〈霧の8マイル(Eight Miles High)〉を書いた。ザ・ビートルズは1966年にスモーキー・ロビンソン、カールハインツ・シュトックハウゼン、アルバート・アイラー、ボブ・ディラン、バーナード・ハーマン、そしてザ・ビーチ・ボーイズといった多種多様なアーティストを聴き、《リボルバー》を生み出した。(一部抜粋)


《書誌情報》
『ビートルズ’66 彼らが「アイドル」を辞めた年』
スティーヴ・ターナー著、奥田祐士訳
ISBN: 978-4-86647-210-2
A5・並製・504頁 本体3,600円+税

https://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK347


目次
序章 なぜ彼らは芸能人から芸術家に変貌できたのか?
1965年12月 最後の全英ツアー
1966年1月 最長のオフ期間
2月 新境地の開拓
3月 曲づくりのスタート
4月 レコーディング開始
5月 ボブ・ディランとザ・ビーチ・ボーイズ
6月 LPの完成と最後のワールド・ツアー
7月 フィリピンでの災厄
8月 「またアメリカ人に叩きのめされに行く」
9月 個人的な関心
10月「落ち目になればいい」
11月 ヨーコ・オノとアレン・クライン
12月 レコーディング三昧の日々
終章 「ポップの限界の向こうに」
付録A タイムライン
付録B ザ・ビートルズのジュークボックス
出典
掲載写真クレジット
索引

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