見出し画像

駅のホームの死にかけの子

 ホームで電車を待っている時、それが聞こえてきた。
 最初はほんの小さな息遣いだった。今にも絶えて消えそうなその声が私の頭に響いて、電車の時間が近付くにつれて少しずつ大きくなっていった。

 怪奇現象だろうか?
 そう思ったけれど、現実主義の私はその考えをすぐに打ち消した。そして次に耳の異常の可能性を考えた。何が原因かは分からないけれど、遠くの音がよく頭に響いて聞こえるようになってしまったのではないか。つまり感覚過敏が発症してしまった。
 うん、これだ。これを仮説として原因を考えてみよう。

 んー、まずこういった突然の身体的変化のほとんどはストレスな気がする。味覚障害になったり声が出せなくなってしまうというのを聞いたことがあるし、これはそれなりに正しいかもしれない。だとしたら、私の頭に響いたこの声は今の私の精神状態に起因しているはずで、それなら今の私の悩みはなんだろうかと考えてみる。

 ──受験勉強。

 こんなちっぽけな悩みしか思い浮かばなかった。しかも特に自分の学力に見合っていない大学を目指しているわけでもないから、正直そんなに悩んでいないというのが本音。

 ──友達が少ない。

 これも悩みの種になりうるかもしれないけれど、私にとって友達は少ない方が幸せだ。だからありえない。いや、でもさすがに友達が一人しかいないということは悩みになるのかな?

「……ていうか、本当にうるさいな」

 少し長い時間考えてみたのに答えが出なかった上に、その間頭に響き続けていた声が無視できない程に大きくなって思考がまとまらなくなってきた。どうしたものだろうかと考えてみようにも、頭に響く音の増幅は止まらない。

「ああ、もう……なんなの」

 頭が割れそうになるほどではない。これはすごく小さくて、誰もが聞き漏らすような声だ。けれど、感覚的にはかなり近くから聞こえていて、それが小さな声でも無視することができない理由になっている。

 声が聞こえ始めてしばらく、頭の中から消えるのではないかと希望的な未来を想像してじっと耐えていたけれど、中々消えることはなかった。今すぐこれを消すまで、他のことを考えることができない状態にまでなっていた。もしこれがずっと続くのであれば発狂してしまいそうだった。近くでずっと聞こえる、それだけで大きな音よりも厄介なものなのか。

「あー、気持ち悪い」
 私は頭を抱えるような形で耳を塞いでうずくまった。

 ──ん?

 聞こえ始めたばかりの時の冷静さを欠いてしまいそうになってきたところで、視界の端に人影が見えた。この時間帯はいつも無人だから、今日も人がいるはずがないと油断していた。いつも下を向いて歩いているから気づけなかったのか。
 ホームでうずくまっている人がいれば何事かと思われてしまう。仕方ないから何事もなかったふりをして立ち上がった。本当はそれどころではなかったけれど、一応は人目は気にした。
 立ってはいられなかったから、ベンチに座ってイヤホンをして目を閉じる。そして頭に響く声に耐え続けた。

 ──吐きそうだな。

「どうかされました?」

 先ほど視界の端にいた人が声をかけてきた。頭に響く声のせいで、人が近付いてきたことに気が付かなかった。

 そして同時に、呼吸音が消えた。

「いや! なんでもない!」
 頭の中に響いていた声のことと、それが途端に消えたことに驚いていたけれど、突然話しかけられたという別の驚きにすることで誤魔化した。

「受験勉強が行き詰まっちゃってて、それで考えごとをしていたんだよね」
「そうだったんですか。頭まで抱えちゃって、すごく深刻そうだったもので、つい……」
「いやー、そりゃそう思うよね。でも、人がいないと思って全身で絶望感を表現してしまっただけでさ、実際は大したことないんだ。だから気を遣って声をかけてくれてありがとう」
「ふふ、それなら良かったです」

 ああ、この子はきっと天使だ。
 ホームでいきなり頭を抱えだす奴なんてただの頭がおかしいやつなのに、そんなやつに声をかけてくれるなんて、少し心配になってしまうくらい良い子なんだろうなぁ。

 でも私は色んな人から変な奴だと明らかな暴言と共に言われたことが何度あっても悩まなかったほどの人間だから、人生で深刻な悩みを経験したことは一度もない。
 だから君のような天使ちゃんが心配することなんてない。というのが普段の私だったけれど、今回は素直に助かった。理由は分からないけれど、今は頭がすっきりしていて、周囲の環境音が鮮明に聞こえる。耳の異常なんて何も感じない。

「いやー、深刻ではなかったけど、話しかけてくれてすごい助かったよ」

 何が起きたかは言えなかったけれど、気持ちだけは伝えたかった。

「ところで君のその制服、少し遠くの高校だよね? こんなとこまで電車で来て、もしかしてサボり?」
「はい、実はそうなんです。あなたの制服も見覚えがありますが、あなたもそうなのですか?」
「そうそう。なんか毎日学校行って授業受けるとかがもうやってられーんってなってさ。朝起きて制服着て学校の近くまでは行ったんだけど、ダメだった。そっちはどうしたの?」
「ふふ。似たようなものです」

 それから私たちはホームでずっと話をした。特にすることもなかったし、学校はとっくに遅刻で今更行こうなんて思えなかったから、沢山話をした。
 そして、この日に話ができて本当に良かった、と私は彼女に言った。また会おうと言って、連絡先を交換して、お互い叱られた後の報告会をしようという約束をした。

「帰るのがちょっと怖いです。でも、後であなたに報告ができるんですね」
「へへへ。そうそう。楽しみにしてるから、後でちゃんと聞かせてよ」

生きているだけでいいや。