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競争社会ってそんなに素晴らしいですか?

経済の停滞が叫ばれて久しい昨今。「がんばろう日本」「絆」「助け合い」は死語になってしまったのでしょうか。私たちの社会の暖かさは、どこへ行ってしまったのでしょうか。

2011年3月、困難を抱えた人に共感し、助け合うことによって、この社会は大きな困難を乗り越え、より良くなるのだということを、私たちは知りました。あれから9年、今日、コロナショックの中で苦しむ私たちの仲間にかけられる声は、大変冷たいものです。

非正規の方々が派遣切りにあっているというニュースが出れば「非正規に甘んじたのだから自業自得だ」という言葉が並び、舞台俳優やキャバクラの従業員が困っているという話が出れば「今まで好き勝手に生きてきたんだから自分で努力しろ」という声が浴びせられる。本当に冷たい社会になったなぁと思うんです。なぜこうなってしまったのか。社会に殺気のようなものが漂い、まるで足を引っ張り合うかのような空気に支配されてしまったのはなぜなのか。私はここ何年かで大きく進んでしまった、この国の競争社会化にあると考えています。

「競争社会にすることでみんなが努力するようになる。」

「いま怠けている人たちは保護されすぎなんだよ。」

「貧しい人は努力しなかったんだから自己責任だ。なぜ税金で助けるんだ。」

最近は、競争を促して「怠けている人」を含めた全員を努力させようという「競争社会志向」が私たちの間で高まっているように感じます。あるいは「怠けて努力しなかった人」へのバッシングが頻発するようになったとも感じます。生活保護バッシングや貧困バッシングがわかりやすい例でしょう。「国は敗者に甘くしてはいけないし、敗者は国に甘えてはならない。平等を求めるのではなく、勝った人には甘く、負けた人にはさらに厳しくしてこそ、みんなが努力するようになる。」そうした競争社会の主張が、本当に多くの方に支持をされているのです。

しかし、私はそこに大変大きな違和感を感じてなりません。本当にその傾向は私たちを良い方向に導いてくれるのか。私のこれまで生きてきた人生の物語が、心の奥底でそれを否定している気がしてならないのです。

私が希望を失わなかったのは「奇跡的に」支えていただけたから

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実は、私が生まれて数年後に、バブル崩壊後の不況のなかで、デパート会社のサラリーマンをしていた父は職を失いました。
それは、両親と兄と妹と私からなる私たち家族が収入を失うことを意味します。というのも、母もまた身体が弱いために職に就けずにいたからです。それから父が定職に就き、家計が安定するまでには10年以上もかかってしまいました。

その10年はとても辛い10年でした。
学校で貧乏人と呼ばれ、劣等感と絶望感に押しつぶされそうになったこともあります。

そして何より「自分が努力することに何の意味があるのだろう」と思うことが何度もありました。どんなに勉強したって、回りの奴らは塾に行って、大学にも親や兄弟を気にせず行ける。それができない自分に、将来のために努力する意味なんてあるのだろうか。絶対勝てやしないのに何ができるのだろうか。生まれながら決まっている運命に抗うことは無謀ではないか。と、日々思ったものです。

しかし結局、私は多くのみなさんの支援を受けて絶望を希望に変えることができました。学習道具をくれたり、あるいは税金という形で支援をしていただいた。本当に沢山の支えをいただくことができました。いつか、なんとかなると信じて、勉強を続けてきました。その後は父が定職に就き、経済的に豊かになったことで、大学に行くこともできました。

当時は世間が今よりも暖かかったなぁと思うのは、単に私が幼かったからだけではないでしょう。困っている人に税金を出すことに、あまり大きな反発はなかった気もします。生活する上で困ったことがあれば、みんなが助けてくれましたし、父は大学に入り直し、人生をやり直すことができました。船から落ちた私たちに、国民は救助用ロープを投げてくれたわけです。そのロープをひとつの希望に、10年かけて私たちは船に戻りました。

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努力できるだけでも実は「勝者」なのでは?

それでも、私はまだ幸せな方です。

船から落ちたけど、救助用ロープが誰からも投げられないから、船に戻るのを諦めざるをえなかった人。あるいは生まれた時にはもう大海原に放り出されていた人が日本には多くいるのです。

大学生になってから、地元の子ども食堂で、利用者の中高生とお話しする機会を何度か得ました。そこでは「何か勉強で困っているところはない?」と聞くと「高校出たら母ちゃんのために就職しないといけないから、勉強はあまりしてないんだ。」という類いの返答が返されることが何度かありました。本当に多くの子どもたちが「努力できない」環境にあって、将来を諦めていることを知ったのです。

非正規雇用で、豊かではなく、なおかつ不安定な生活を強いられている方からお話を伺う機会も何度かありました。「正規雇用になるための就職活動すら、1日でも仕事が途絶えると生活できないような私たちにはできない。」「どうやってこの状況を改善すればいいのかもわからない。」などなど、そこで聞こえてきた非正規の方々のリアルは、とても「彼らは努力せず怠けている」という世間一般の印象とは異なるのだという事を知りました。

私は、人々が主張する「競争社会」がこうした人々を無視していると思うのです。現在は、一億総中流と呼ばれ、誰もが同じような環境と境遇に置かれていたような時代とは違います。様々な環境、様々な境遇に私たちは置かれているのです。そして、競争強化の主張をする人が規定している「怠けている人」は実際には「努力できない環境にある人」か「努力してもどうにもならない環境や性格に生まれてしまった人」あるいは「努力するという発想すら生まれない環境にある人」なのであり、競争を激しくして、勝者と敗者の区別を強化したって、別に今以上に努力なんてできない。むしろ、格差をただ広げてしまうだけだと思うのです。

競争社会化は実は日本を良くしない

競争社会化は逆効果だとすら思います。

一方は車で、もう一方は足かせを着けて42.195kmを走れと言われても、後者は走ろうとはしないでしょう。明らかに勝てませんから、走るだけ無駄だと思うはずです。あるいは、生まれつき足かせをつけていれば、走り方すら知らないかもしれません。しかし、今の日本はこれです。

もし、競争を始めたいのなら、ただ単にスタートの乾いたピストルの音を鳴らすのではなく、その前に平等なルールを整え、私たちをスタートラインにしっかりと立たせるのが先です。全員に走り方を教え、走る道具を与え、少なくとも走る意義を見出せる状態にしてから競争をはじめるべきでしょう。そうすることでどっちも努力するようになるからです。

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私はいまの日本をサバンナに見立てて「弱肉強食社会」と揶揄しています。この状態で努力を求めても誰も努力しません。

サバンナではシマウマの子は当然シマウマであり、ライオンの子は当然ライオンです。さあ、ここで自由に競争してくださいと言っても答えは見えています。シマウマはライオンに食われるでしょう。

シマウマがライオンを上回って食物連鎖の頂点に立とうと努力するかと言えばしないでしょう。それはできないからです。一方のライオンも、シマウマに自らの地位を奪われる危険はありませんから、何らかの努力もしないでしょう。このシマウマとライオンからなる競争社会(弱肉強食社会)では誰も状況を変えるための努力をしていないということになります。日本はこれです。

「誰だって努力すればなんにでもなれる」などといって、野口英世だの田中角栄だの、様々な例外を持ち出してくる人がいますが、基本的には前述の通り、シマウマの子は今もシマウマであり、それを覆すことも、覆そうと思うことも日本では難しいのです。野口さんや田中さんは私のように、絶望を脱する奇跡にたまたま巡り会えたにすぎません

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やるべき事を間違えていないか?

私は競争そのものは否定しません。確かに、それは人々を努力へと駆り立てるものです。しかし、それはそもそも努力できる環境や、努力すれば誰でも競争に勝てるという状況を作って初めて人々を駆り立てるのです。

私たちは、サバンナの、乾いた風が吹いて殺伐とした弱肉強食社会のなかで競争を主張するような無意味なことは、今すぐやめるべきでしょう。私たちがまずはじめにやるべきなのは、競争を強化することではなく、人々を競争の舞台に立てるように支え、努力できるようにすることなのです。

おわりに

確かに、子どもたちを親から切り離して、みんな同じ条件で育てることも、みんなの性格や生まれもった才能を均一にすることもできません。完全に平等なスタートラインなど不可能です。

でも、だからといって何もしない訳にはいきません。私たちには、できることがまだあるはずだからです。

一人親家庭で、養育費が払われず、困っている親子に、私たちはまだ何かできるはずです。

家計を気にして、就職しようとしている高校生の少年に、夢を諦めさせない方法がまだ何かあるはずです。

将来はどうにもならないからと、勉強をあきらめている子ども食堂の少女に、私たちはまだ何かできるはずなのです。

「怠け者」と突き放すのではなく支えてほしいのです。完璧な目標の達成が難しくても、それに近づけば近づくほど、社会は良くなるのです。

本当に意味のある競争社会の実現のためには、まずそれしかありません。

ひとりがみんなのために、みんながみんなのために支えあって、結果的に支えた側も支えられた側も幸せになれる。そんな社会を目指しませんか?

足を引っ張り合って社会が崩れてしまうような、弱肉強食の競争社会ではなく、
切磋琢磨して共に向上する、助け合いの競争社会こそ私たちが目指すべき社会なのではないでしょうか。

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