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【行為のマネジメント】誠実さという”能力”

例えば、学生からの「最終面接があるので、今日ゼミ休みます」と言うテキストメッセージ。「連絡ありがとう、就活頑張れ」と返す。大変だ、今日のゼミで用意していたワークショップのグループ分けを急遽組みなおさないといけない。今回学んでもらうつもりだった内容はどこで彼に理解してもらおう。

誠実であることの難しさ

でも、まてよ。よく考えると、最終面接なんだから多分数日前には予定されていたはずだし、今日のゼミで何をするのか(休むとグループワークの予定が狂ってしまうこと)を、あいつ知ってたよなぁ・・・。

一学生の立場からすると、自分が休むことくらいで大騒ぎにはならないだろうという発想は、ある意味謙虚なのかもしれない。そもそも、全体に対する自分の影響はそれほどじゃない、という意識は彼や学生にかかわらず一般的だとも言える。就活なんだから仕方ないじゃん、という理屈もまた妥当だ。もちろん、先生風を吹かせて「就活より学業優先」だなんていうつもりも全くない。

ただ、自分だったら最終面接が分かった段階で先生に伝えるだろうし、ゼミ仲間にフォローをお願いする(もしくは休んだ分の内容を後日教えてくれ、と頼んでおく)ことくらいはするかな、とも思う。先生は自分が参加する想定で今日の準備をしているはずだし、仲間はグループの人数が欠けてしまうことでワークショップをやりにくくなるな、と細々(こまごま)と想像してしまうからである。確かに若干細かいことだし神経質に考え過ぎかな、とも思う。でも、自分がそういう配慮をされたら、やっぱりその人のことを「誠実なやつだな」と感じるように思うのだ。

「相手の気持ちになって考える」

おそらく、彼は「相手の気持ちになって考える」ということを、本当の意味ではやらなかったんだと思う。もし、自分が休むことが相手(先生や仲間)に与える影響や、彼らがどう感じるか、といったことについての想像をしたなら、まずじっとはしていられないはずだから。気になってあちこちに連絡したり、自分ができることを思いつく限りやりたくなるんじゃないか。でも、彼はそうしなかったし、だからこそ当日のゼミ直前になるまで連絡をしてこなかった。先生にのみテキストメッセージを送っておけば十分だという感覚もあったんじゃないかと思う。

彼の心理は十分理解できる。相手はよく知っている先生だし、自分の状況や性格を知ってくれているはずだから、細かいことを気にせずとも理解してもらえる。そもそも大学教授だし、自分よりずっと大人の先生だから、そこんところ大きく構えてくれる(または気になんかしない)はずだ、と。でもね、君と同じ人間である私は、やはり君と同じようにものごとを感じるんだ。

「相手(ゼミ仲間や先生)だったらどう思うだろうか」を真剣に考えることは意外に難しい。特に、相手が自分が通ってきた道を後から歩んでいる年下ではなく、自分がまだ行き着いていない年月を経験している年長者ならなおさら。でもよく考えてみてほしい。年長者だからといって、君が知っていること、経験してきたことすべてを通過してきているわけじゃない。だから、なんとなく気持ちが分かるような気がする同僚や年下の人と同じように、年長者の私のことも見ることはできないだろうか。

さらに、「相手の気持ちになって考える」ことにはもう1つ壁が存在するようにも思う。それは「相手の気持ちになって考える」ということが、相手(自分ではない他者)がどう思っているか、ではなく、実際に自分がその人の立場・状況だったらどう思うか、を考えることだということだ。特に年長者であったり立場の違う相手について、その人が自分と同じ人間だと本気で信じること自体がそもそも難しいと思う。「”この今の自分”が相手の立場だったらどう考えるだろうか」ということが、実際にその人が考えるであろうことだと思えるようになるには、かなりの訓練がいるように思うのだ。結果として、「結局は他者のことなんて分からない」と、想像を放棄しているケースが多いんじゃないだろうか。

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コミュニケーション力

学生たちが就職活動で求められる能力のうち、常に上位に掲げられるのがコミュニケーション力だ。ただ、このコミュニケーション力を「物怖じせず人と話せる力」程度に理解している人は多い。もちろん、それも魅力的な力なのだけれど、重要なのは仕事で求められるコミュニケーションとは何か、だ。単に陽気で、物怖じしない性格の人を求めて採用担当者はコミュニケーション力を強調しているのではない。

例えば営業担当者として自社商品を売る場面を想像してみてほしい。顧客である相手に自社商品の魅力を伝えるため、営業トークを繰り出したくなるところだ。しかし、一方的にこちらが思う商品の魅力を吐き出しても、それで買ってもらえることはまれだろう。相手(顧客)には考えやニーズ、困っていることや課題があるはずで、それに応えたり解決したりするからこそ、その商品が顧客に魅力的に映るはずである。つまり、売り手である自分が思う魅力ではなく、顧客である相手からみたとき、自社商品はどう魅力的なのかを考えなければならないのである。

同様に、上司から「明日のあさイチで会議があるから、準備しといて」と指示されたあなたは、何をするだろうか。出社後いち早く会議室に向かって、照明をつけて机や椅子をセッティングしておくだろうか。それとも、今日中に会議室の予約手配をしておいて、翌朝いつもより早く出社して、コーヒーを淹れ、資料をコピーして席に配布し、プロジェクタを立ち上げておくだろうか。

上司からの指示を理解するということは、ただ言葉尻を捉えて行為することではない。相手の意図や考え、やってほしいと思っていることを汲み取り、それにどう答えるかを自ら考え、行為を起こすことができるということである。もし朝出社して会議室に行ってみたらカギがかかっていて、使うためには前日までに予約をしておかなければならないことにその場で気付くような人は、おそらく上司から見れば、言ったことが伝わらないやつ=コミュニケーション力に欠ける人、に映るだろう。コミュニケーション力の根底には「相手の気持ちになって考える」ことで、相手の意図を汲み取る力が横たわっているのである。

コミュニケーション力は、これまで20年以上にわたって企業が新規学卒者に求める能力第一位であり続けている。にもかかわらず、同様の調査で「大学生に不足しているもの」の上位にはこのコミュニケーション力が挙がる。つまり、採用担当者や経営者はコミュニケーション力のある人が欲しいと思っているが、実際会ってみるとそれが欠けていることが多い、ということなのだ。

先の営業担当者の例でいえば、顧客の気持ちを汲み取って、その人に必要な商品を提案することが誠実な対応といえるだろう。同様に、上司の指示の例でいえば、上司がやってほしいと思っていることを汲み取り、自らの判断で必要だと思う準備を進めることが、誠実な態度に映るはずだ。もちろん、顧客や上司にもっと具体的に何をしてほしいか聞く、という方法もある。しかし、そうやって自分がすべきことを相手に説明させようとする態度は、結局は「そうやれといったのはあなただから」という言い訳を用意しているような無責任さを感じさせる。つまり、とうてい誠実とは言えないのだ。

他者に関する仮説を持つ

では、誠実であるためにはどうすれば良いのか。ここまでの理屈に基づけば、それは「”この今の自分”が相手の立場だったらどう考えるだろうか」という意味で「相手の気持ちになって考える」ことで実現されるはずだ。でも、この思考には常に「でも相手は自分と違う人間だし・・・」という恐怖が付きまとう。実際にどれだけ相手の立場に立って想像しても、そうやって立てた仮説が外れることも当然あるわけである。

ただ、その仮説が外れていたとされた場合(当事者にそんなこと思っていなかった、と言われるような場合)でも、その仮説は本当に外れていたのだろうか、と考えることはできないだろうか。もし、こちらの仮説が否定されたとしても、そもそもその当事者は何も考えていなかったかもしれないわけで、どんな仮説をぶつけても当たるわけがない可能性すらある。もっといえば、当の本人に別の正解を示されたとしても、「自分なら自分が示す仮説のように思うし、そう思わない方がおかしい」と考えることは変なことだろうか。

もちろん、実際にここまで口に出して言ってしまうとそれは行き過ぎだ。でも、こんな風に相手(自分)のことを相手(自分)自身が一番分かっているとは限らないという前提を持つからこそ、私たちは他者についての仮説を持てるのではないだろうか。結局正解は相手の中にしかない、と考えてしまうほど絶望的で報われない思考はないし、そんなことが本当なら他者と関わること自体がとてもデリケートで難しいものになってしまう。「自分だったら」という仮説を相手に押し付けてしまうほど相手を同一化して考えるからこそ、私たちは相手に関する仮説を持つ(「相手の気持ちになって考える」)ことができるように思うのだ。

相手を同一化して考えるということは、いわば相手に「なる」ことを意味している。認知心理学の議論によれば、私たちの認知活動には「見る」モードと「なる」モードの2つがあるとされる。「見る」モードはある意味客観的、傍観者的に対象を観察する姿勢である。例えばエンジンのメカニズムを設計図で(形状を静的に)理解するような頭の使い方は、この「見る」モードによるものである。同様に、地図を見て街の地理的な構造を理解するのも、この「見る」モードによる認知である。

一方で、「なる」モードは自分を対象(相手)の中に入りこませ、そこから世界を見てみるという取り組みだ。エンジンでいえば、それを実際に動かし、何がどのようになるのかを感じることで、その機能や動き、働きを理解することにあたる。地図の例でいえば、地図上で見ているその道に自分が立っている想像をし、そこから何が見えるのかをイメージしながら特定の目的地への道順をたどるような認知の仕方である。

客観的に「見る」力≒観察力があるように、「なる」力≒共感力もありうる。ともすると現代は観察力が重視されがちのようにも思う。だからこそ、共感力を鍛えることが必要だと思うし、それが先のような他者に関する仮説の精度を上げることに直結する。それが結果として、他者に関する仮説を持とうと思えるようになる契機となるし、能力としての誠実さを手に入れる方法だと思うのだ。

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