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日記 生命に対して謝らない

今夜も寝る前に、おやすみがわりの日記を一つ。

4月から働こうと思っていたのだけど、それができなくなった。

今までできなかった分を取り戻せるかなと思っていたし、家族からもそう期待されていた。現在、わたしが働けない分は家族(特に母親)に負担をかけている。母も高齢となり身体を壊すことも増えていたので、わたしが働いて少しでも負担を減らしたい、と思っていた。

わたしがまだしばらく育児に手一杯だと知った時、両親はそれについて何も言わなかった。ただ、あんた歳取ってるんだから身体に気をつけなよと。

そして、まだまだ元気で働かないかんね、と言った。

「ごめんね、なかなか手伝えなくて」
「大事な子だから、大事に育てたり」
「ありがとう」

次男に手をかけることに賛成してくれた家族には本当に感謝している。

つくづく、親に楽をさせてあげられない。



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ふと、謝る、ということについて考えた。

わたしは日常生活で謝ってばかり。小さな失敗は多いし、バタバタしてると細かいことはすぐに忘れる。息子たちも「待てない」特性が強いので、順番が待てなくて割り込んでしまったり、話を最後まで聞けなかったり、カッとして手が出たり。親のわたしが謝ることはすごく多い。

もはや挨拶がわりに謝罪する勢いで、いろんなところで謝罪している。謝罪のプロになれるかもと思うが、そんなに上手には謝れない。素人のままでいいよね、そこは。

とにかく、何かの行為について、相手に不快な思いをさせたり、相手を傷つけたり、相手の邪魔をしてしまったりした時、わたしは謝罪する。それは素直に、相手に迷惑をかけてすまないと思うから。

ただ、今回次男の件があって、わたしは何に対して謝るべきなのだろうと考えた。

というのは、もし、その行為を超えてわたしが、そして仮に息子たちが、「こういう人間ですみません」と謝ったとしたら、それは何かが違うような気がするから。

次男だって、この世に生み落とされた途端、あれができないこれができないと言われ、挙句の果てに「ついていけなくてすみません」と謝らされるなんて意味がわからないだろう。



そもそも、そうであれば誰が悪いのだろうか?

次男本人では絶対ない。生まれてくる個性は選べないから。

「定型発達で産んであげられなかった」わたしだろうか。
夫婦の相性や遺伝的な要素があるとするならば、わたしと夫が結婚したことだろうか。
そうなれば、わたしが夫を選んだこと、夫がわたしを選んだことですら謝らなければならないのか?



誰も、何も悪くない。

授かった「いのち」に対して謝ることだけは、してはいけない。

そんなふうに、思う。



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このところの悲しみとも関連するのだけど、わたしはこれまで随分人を傷つけてきた。傷つけるだろうなと分かっていながら、そういう行為をしてしまう。そして、決定的な何かが起こった時、自分は改めて相手のことを考えられない、身勝手な人間だという事実を突きつけられる。


恋愛や結婚をすれば、相手のことを傷つけるし、時には相手の家族をも傷つける。


独身の頃、家のことで反対され別れなければならなかった時。双方の家族を巻き込み、みんなが負傷した。男女関係は1対1でも、それぞれに繋がりがあるから、よほど特殊でない限り相手と相手の大切な人を巻き込んで傷つける。
わたしはそういう失敗をたくさんしてきた。 


もちろん傷つけることを望んでいるわけではない。
だけど、結果的にそうなってしまう。


そんなことを繰り返して、わたしは随分長い間、人を好きになるのが怖かった。
人を好きになってはいけない、わたしは普通の恋愛などしてはいけないと言い聞かせてきた。


それでも、わたしも人間だから、感情がある。

わたしは自分のことを、「よだかの星」(宮沢賢治)のよだかのようなものだと思っている。恋愛に関しても。普通の恋愛に憧れながら、どこに行ってもそれは叶わなくて。それどころか相手や大切な人を傷つけてしまうのだ。


自分が生きていることは、迷惑でしかないのではないか。
人を傷つけることでしか、生きていけないのではないか。
迷惑なのに、なぜ生きているんだろう。
自分には楽しむ権利はないのではないか。


……決して自慢できる話ではないけれど、そんなことを考えて、たくさん謝ってきた。


でも。
それは、「こんな自分でごめんなさい」であり、「人を好きになってごめんなさい」であり、「人と恋愛してごめんなさい」で、突き詰めると「生きててすみません」で、「生まれてきてごめんなさい」ということになる。

考えるとゾッとする。

そんなことを言い出したら、じゃあわたしの母親はわたしを産んですみませんって言わなきゃいけないし、母親と父親が結婚してすみませんだし、遡れば母親や父親が生まれてすみませんって言わなきゃいけなくなるんじゃないか。



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命は、単体でそこにあるわけではない。

ずっと繋がってきてそこにあるから、一人が命に対して謝ると、みんなが謝らないといけなくなる。
そんなことあっちゃいけないんだ。


今気づいたんだけど、「よだかの星」のよだかは、自分がなんでこんな目に遭うんだろう、なんでこんな見た目なんだろう、って自身の境遇を嘆きはするけど、「生まれてきてすみません」とは絶対言わないんだよね。
謝っていないの。こんな自分ですみませんって。
ただ、「こんなわたしでも、あなたのもとに行きたいです。行かせてください」って懇願するだけ。



**


わたしのように自分に自信がない人間は、つい「自分がいてすみません」って言いたくなるんだけど、行為と存在は切り離して考えなければならない。


もし誰かを傷つけたなら、行為に対して謝罪する。


でも、自分や存在に対して謝ることは意味がないし、そんなことしてはいけないと思った。自分が自分であってごめんなさいとは、誰も言ってはいけない。


存在を認めることと、行為を認めることは別なんだ。




そんなことを考えた一日だった。



自分がしてきたことの罪は変わらないけど、この気持ちは自分と人を大切にする根幹をなすのかな、という気がしている。



愛しているよ。





(了)

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