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バイバイ、20代


 気づいたら20代が終わっていた。

 「20代にしておきたい17のこと」を読まないまま29歳の最後の夜は過ぎていった。17個のうち何個を実践していたのかも分からないし調べる気にもならない。調べたらきっと後悔するから。

 周りは成人式を成人で迎える中で、早生まれの私は19歳のままで横浜アリーナにいた。式典の最中に鶴見区の旗を持ったヤンキーが壇上へ向かって行った。周りから窘められて席に戻ったそのヤンキーも成人に成っていなかったのだろうか。

 その後の同窓会では、久しぶりの小中学校の同級生と会えて嬉しかった。小学校の同窓会では地元の居酒屋の大部屋を貸し切っていた。あの当時から禁煙ブームがあったにも関わらず、会場は喫煙者たちのタバコの煙でホワイトアウトしていた。当時よく遊んでいた友達たちは、医学部に進学してコンパをしまくっていたり、早稲田の理工学部に進学してバリバリの理系だったり、既に働いて家庭を持っている友達もいた。すでに子供がいる子は親に預けて来ていたし、臨月を迎えていた子は成人式を欠席していた。同じ6年間を過ごしていたのにここまで多様な未来が待っていたなんて想像もつかなかった。好きだった子はスレンダーだった当時よりも少し丸くなって可愛らしい女性になっていたし、初恋のあの子は欠席していた。

 そんな自分はといえば、当時はしがない農学部生。教育系NPOにもちょくちょく参加していたし、通っていた予備校で事務のアルバイトもしていた。

 そういえば、人生初のリストラに遭ったのも大学生だった。大幅な業務縮小に伴って、アルバイト先も閉校となってしまった。お世話になった正社員の職員たちは、葬儀屋だったり職業訓練校だったり方々に行き先を決めていた。新卒から数えるとすでに4社目で働いてる私だが、「まあ何とかなるっしょ」という精神はあの当時の職員を眺めていて身についたのだろうか。

 新卒でお世話になった会社は、今思えば社長と同期に恵まれていた。上司にも常に恵まれていて未だにサシで飲む仲である。

 新卒の研修では、ホテルに1週間軟禁されて地獄のようなビジネス研修を行なったり、山口県と宮城県で計3ヶ月の同期との集団生活をしつつ工場研修を行なったり、なかなか密度の濃いものがあった。

 ホテル研修では、屋外に設置された喫煙所が唯一の外気と触れることができる場所で、喫煙所で一服するたびに「シャバの空気を吸いたい」という地元の同級生の気持ちが少し分かった気がしていた。

 同期との集団生活の終盤で、ゆずの「また会う日まで」とケツメイシの「仲間」を誰かが流した。その時はそれぞれが思いの丈をぶつけたり研修を振り返ったりしていたから、なぜか未だにその曲が流れる度に心がジーンと来てしまう。その時の自分としては、このまま同期でずっと頑張ってやっていくんだろうと思っていたからこそ、色々とあって辞めてしまった事に対しては申し訳ない気持ちもある。

 出会い系や飲み屋の繋がりで、色々な女性と出会えたのも大きい。特に大好きだった歳上のお姉さまからは「実家帰る時は美味しいケーキでも買って帰りなさい。お母さん喜ぶから。」と教わり、未だにその教えは守り続けている。平塚にある「葦」というお店が美味しくて、買って帰る度に両親から喜ばれる。ただ、あのお姉様とは付き合うことができず、別れ際に新宿駅の改札でキスしてくれた思い出を最後に連絡は一切無い。

 コロナにも早々に罹患した。全国でまだ1000人到達するかどうかの頃だった。発症前にレジ待ちの列で咳をしまくっていた前のおばさんが原因だったと未だに信じている。

 罹患したのがGWに突入するかどうかの時期だったのと20代で初の死者が出たということもあり、ホテル療養したいと懇願した。あの時は初めて自分の死というものを覚悟した。

 アパホテルのワンルームを用意されてホテル療養生活が始まった。友人たちに心配されてビデオ通話をしたのは良い思い出だった。当の私はというと、社用PCも持って行ったので周りから心配されつつリモートワークをしながら、みなみとみらいの絶景を見下ろす生活をしていた。「焼肉三銃士」とか「叙々苑」の高級焼肉弁当も支給され、大好きな風呂も朝昼晩に入ることができ、終わってみれば最高のホテル療養生活だった。この話をすると、同じくホテル療養していた人からは待遇の良さを嫉妬される。

 お金が欲しいと思って不動産業に飛び込んだが、私には到底無理な世界で早々にリタイアした。お金は欲しかったけれど、お金の為に土下座したり稼いだ事を自慢げに語るのを見て、自分はそこまでお金が欲しいわけではないと悟った。

 その後は肉体労働の重労働でヘルニアになった。あと、私の人生で出会った中で一番のバカと出会ったのもこの時だった。あの人のせいで、私は思いっきり事故って意識を失って臨死体験と一部記憶喪失になった。

 記憶が戻ったキッカケは、とある日にロクシタンの前を通ると新卒の頃に大好きだった先輩社員と同じ香りが鼻を掠め、そこから一気に身体中にビリビリと電流が走って記憶がどんどんと甦った。やっぱり女神はいるんだと再確認。

 結局、ヘルニアで職を続けることもできなくなって転職。

 今の会社では、不倫だの何だのと謂れのないデタラメを吹聴してくる人達には辟易とする。つまらない毎日を送っている人達ほど噂話やゴシップにすぐに食いつく。世の中からゴシップ誌が無くならないわけだ。

 職場の派遣さん達は顔見知り同士が多くなり、喫煙所や休憩室でコミュニティができつつある。こうやって世界の移民が問題となっていくのだろう。実際にどんどんルールが厳しくなっている。春休みのお小遣い稼ぎに来たであろう学生達に陰で「ボス」と言われていたのには笑った。名乗りもしていないのに名前で呼ばれる事にも慣れた。親しみやすいということだとポジティブに捉える。

 基本的に仕事は手を抜いている。全力でやったところで疲れる。年々、緩急をつけられるようになってきた気がする。やることをやれば文句も言われず頼りにされる。生意気な後輩も気にならない。ただ、そのビッグマウスに見合う行動が無いとガッカリする。そういう意味では、自分が新卒の頃は生意気を言った上で多くの人にお世話になりながら色々と行動させてもらえた。やっぱり20代も人には恵まれている。

 恋愛についても相手に恵まれていた。

 こんなどうしようもない自分と付き合ってくれる人達には感謝しかない。でも、昔の自分はバカだったらしい。とある歌詞を借りれば「遠くにあるもの見ようとして近くにあるもの見落として」いた状態だった。手に入らない幸せばかりを求めては相手も傷つけて別れてを繰り返した。まるで、太陽に近づいたイカロスのように真っ逆さまに落ちていったのに、学んだと勘違いしては何度も落ちていった。

 そんな私と付き合ってくれた人達は、運命の人と出会った証拠に左手薬指のリングに永遠の愛を誓っている。未だに私の左手薬指には中学生の頃にできたシミがポツンとあるだけだ。

 結婚がゴールだとは思わないが、学生時代に言われた「あなたに合う人は太陽系には存在しない。」という言葉が現実味を帯びてきた。私が運命の人と出会えるのは人類の宇宙開発競争に懸かっているのかもしれない。

 趣味の話も少ししよう。

 NORIKIYOの川崎チッタにも行けて、OZROSAURUSの横浜アリーナにも行けた。KREVAとMACCHOを同じステージ上で見れたのは歴史の一証人となれたと自負してる。この10年で日本のヒップホップシーンも大きく変わった。ラッパーをやってるなんて言ったら白い目で見られていた時代からお茶の間にも届く大衆音楽になりつつある。ここら辺を語ると熱くなりすぎるので自重する。ただ、OZROSAURUSとNORIKIYOだけはこの先も聴いていると思う。

 最後に、20代で出会った心に留めている言葉たち。

 「こちらから見ればサイテーな人 だがあんなんでも誰かの大切な人」

 「生まれた事自体に意味なんてない けどもしも欲しいんならつけちゃいな」

 何回か紹介しているが、このふたつだけは心に留まっている。

 なんというか、10代の頃はもっとイケイケな言葉に憧れて翻弄されていた気がするが、20代前半は少し引きずられていたものの後半からは一歩引いてみたり少し立ち止まって考えてみることが多くなった気がする。

 周りが結婚や出産に子育てを頑張って楽しんでいる中で、私は未だに自分の好きなことにお金と時間をかけている気がする。

 将来設計がどうも苦手な私には、老後の心配や将来に向けた貯蓄についてはからっきしダメみたいだ。それよりも今ある生活を充実させる方に未だに全振りしている。

 「30代から貯蓄する」と言って20代は高価で長く使用できそうなものをたくさん買ってきた。そのおかげで、長く愛用しているものが身の回りに溢れかえっている。転職してからは、少しずつ貯蓄もできるようになっている。

 そんなこんなでこの文章からも分かる通り、行き当たりばったりな20代を過ごしてきた。

 さて、30代はどのようになるだろうか。年輪のように少しずつ大きくなってきた腹部の贅肉をつまみながら苦笑いをしている。

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