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家で看取るということ。うちの場合。選択。

父はパーキンソン病だった。
パーキンソン病は、神経伝達物質であるドーパミンが
だんだん減ってくる病気で、
筋肉の動きがコントロールできなくなってくる。
現在のところ、進行を遅くする薬はあるけど
治療薬はなく、難病指定されている。

3年前、父は腎臓の炎症を起こして入院した。
入院した途端に口からは食べられなくなり、
それから2ヶ月半、大動脈からチューブを通して
全ての栄養をとっていた。

そして、大動脈のチューブは、ずっと同じ場所につけていると
感染症になりやすいので、
そろそろチューブの位置を変えなきゃいけなくなった。

そして、
「そもそもチューブでいいのか」の選択をしなければいけなくなった。

その1ヶ月くらい前、
「お父さん、もう長くはないって」
と母から電話がかかってきた時、私はネパールにいた。
入院したけど、手術もしたし、じきに退院できるでしょ
と思っていた私は電話に動揺して声が震えてしまった。

「もう、あなたが家族の中で一番感情的なんだから」
母が淡々とため息まじりに言った。
思わず「ごめんね」と言ってから後で思った。

泣かせろよ。
親がもうすぐ死ぬって言われること、人生でそうないんだぞ。
泣かせろよ。

と思ったけど、
まあ母も、配偶者がもうすぐ死ぬって言われること
人生でそうないな。泣きたいのはこっちだよって感じよね。

母とは、仲が悪いわけではない。
自分の親ながら面白い感性を持った人で、
母語録だけでもたくさんあるのだけど、まあよく言えば
サバサバとしたマイペースな人で、
一緒に泣く、と言う選択肢はなかった。
あったら、ずいぶん違う展開になっていただろうな。

それからは、動揺しつつも、
淡々とコミュニケーションをとることになる。

パーキンソン病は、癌とちがって
余命宣告がない。
このチューブをつけっぱなしと言うわけにはいかないけど、
チューブの位置を変えたからと言って、
どれくらい生きられるかわからない。
チューブで生命は維持できても、
それがベストなのかどうかわからない。

このまま入院して、だんだん弱くなって
亡くなってしまうのかと単純に思ってた
(単純じゃないけどさ)ので、
そこで選択を迫られることを考えていなかった。

父は、会話を持続させることは難しくなっていた。
私がネパールから帰国した時には、
父が入院して2ヶ月たっていたけど、
すでに目を閉じている時間が長くなっていた。
寝たきりになると、入れ歯を外さなければいけないので
ただでさえ途切れ途切れな言葉が
余計わかりにくくなっていた。

母がしみじみ言っていた
「入れ歯って、噛むだけじゃなくて話すのに重要なのねえー。」

確かに。

私が帰国してから、
妹も兄も妹の息子たちも
一緒に家族会議を開いたけど
重い空気でご飯を食べて終わった。
答えは出なかった。

入院して2ヶ月後、長期入院が可能な病院に転院した。
同じ病室だった男性が、父の10歳上の86歳で、
パーキンソン病だった。胃ろうをしていた。
もうこの病院に1年以上いるという。
痩せ細っている父と対照的に、
お肌がツヤツヤで、ピンク色のふっくらした頬をしていた。
手もぷりぷりしていた。
胃ろうって、胃に直接栄養を送るぶん、
栄養状態がとてもよくなると言うことを知った。

その人の三人の子どもたちも、
ちょうど私たち兄妹の10歳くらい上で
代わり代わり誰かがお見舞いに来ていた。
会話は、難しいみたいだった。
毎回、子どもに自分の名前を聞かれていた。
言えたり、言えなかったり、だった。

もしも、父の大動脈のチューブを
胃ろうに変えたら、みるみるほっぺが
ふっくら盛り上がってツヤツヤしてきて、
枯れ枝みたいな指も肉付きが良くなって

そしたらその後で、やっぱり胃ろうをやめてください
と言えるだろうか。
そこからしぼんでいく父を見ることができるだろうか。

そして、だからと言って
胃ろうという選択をした
ピンクのほっぺのおじいさんの子どもたちを
いいとか悪いとか決めつけるなんて絶対できない。
それぞれの家族にはそれぞれの事情がある。
家族同士の関係性もそれぞれだ。
間違ってもわかったようなことは言えない。

数年前に記した父の遺言には
延命治療はしないでくれと
書いてあった。

でも、この時初めて知ったのは、延命治療と言うのは
「ハイッ、これから延命治療ですけど
どうしますか?」と始まるとは限らないことだった。

その場その場でベストと思われる
治療方法の選択をしていって、
あとから振り返ると、
「あの処置は延命治療だったな」と
いうパターンだってある。

延命治療が「延命」の顔をして
やってくるとは限らないのだった。

これが延命治療であろうとなんだろうと
とにかく今父についているチューブをどうするか
選択しなくちゃならない。

「お父さん、家に帰らせてあげたいけど
終わりのない介護は、私には無理だなあ。。。」
母がつぶやいた。

正解なんてない。
食べたくて食べたくてたまらない父に
食べ物を味あわせてあげたかったら
うちに連れて帰るしかない。

嚥下機能が低下しているので、
食べさせたら
すぐに吸引しなければいけない。
吸引しても、誤嚥性肺炎で
高熱を出してそのまま死んでしまう可能性も大いにある。
そのリスクも引き受けて
うちに連れて帰るかどうか、という選択は
人生で一番難しい選択だった。

誰かの生死に関わるような選択なんてしたことがなかった。

「帰りたい?」
と母が父に聞くと、父は時間をかけて答えた。
「帰りたい。…でも、難しいよね。」

結局、チューブを全部外して、
水分補給の点滴もなしで、
父は家に帰ってくることになった。
水分補給もないのは、一見、残酷に聞こえるけど
水分を与えた方が、少しは長く生きるかもしれないけど
体は辛いのだそうだ。
根っこが死んでしまった木に水を与えると
根っこが腐ってしまう。それと似たようなものです、
とドクターに説明された。
母は、「じゃあ辛くない方で」と言った。

決めたのは母だった。
でも、家族の誰かが猛反対したら
家に連れて帰ることを決意しなかったと思う。
母の選択をみんなでサポートすることになった。

父はほとんど寝ていることが多くなっていた。
パーキンソン病は、顔の表情筋の動きも奪うので
感情表現も限られてくる。幻視も症状の一つだ。
たまにベッドにとっくに死んでしまった実家の猫がいたりした。
幻視でもなんでも、父がかわいがっていた猫がそばにいてくれて
よかった。

会話、というよりは、ポツポツ言葉をたまに発する
という感じだったけど、
肝心な時は、短い言葉でもピントは合っていた。
「ああこの人全部わかってるな」と思った。

ある日病院で、父が
「おふくろ、一人で来られるかな」と言った。
祖母は10年以上前に亡くなっていた。
「たぶん大丈夫よ。」と私は答えた。
そして
「おばあちゃん、迎えにくるのはもうちょっと待ってよ、
せっかく家に帰ることになったんだから。」と切実に願った。

ドクターに、母と私で
退院して家に引き取ることを伝えた。
ドクターは、自分は、いいとも悪いとも言わない
と言うことを強調して、
淡々と状態の説明をした。
そして終わりに、
「うちの祖父母も家で看取りました。
みんな昔はそうやって見送ったんですよね。」
と話した。ちょっと救われた気がした。

「お父さん。このチューブをとってね、
家に帰ろう。」
と母が伝えた時、父の顔が、ふわあっとほころんだ。
表情筋は動かなくなってきても、
安堵していることが伝わってきた。
ああ、やっぱり帰りたかったんだなあ。

そして、家に帰るということがどういうことか、
父は全部わかっていたんだと思う。

それから1週間くらい経って
父は家に帰ってきた。

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