見出し画像

家で看取るということ。うちの場合。誕生日。


3年前の今日、うちの父は76歳になった。
その2ヶ月前に入院することになり、
口から食べることは一切できなくなっていた。

一年の大半をインドとネパールで過ごす私は
当時(2018年)ネパールにいた。
いよいよお父さんどうにもならないと母から電話があり
いつもより10日くらい早く帰国することにした。
父の誕生日の2日前に帰国する便だった。

ネパールからの帰国便で、
中国での乗り換え便をミスってしまい、
途中でチケットを買い直す羽目になる。
GoogleもYahooもLineもない中国で
チケットを取り直して諸連絡して、という
ただでさえまどろっこしい作業は

「おそらくこれが
父にとって最後の誕生日になるのに
帰るのが間に合わなかったらどうしよう」

と言う不安が重なって、まどろっこしさに拍車がかかる。

成り行きで、乗り換える便の機内持ち込みが
ものすごい巨大になってしまい、
チェックインカウンターのスタッフが目が点になっているのを
泣き落としで見逃してもらい

旅人自分史上、5本の指に入るドラマチックな旅だった。

(→当時のブログに書きました。)

思いっきり中略。

そして結局日本に着いたのは
6月13日、父の誕生日の前の日の早朝だった。
ほぼ丸一日遅れての帰国だった。
ボロ切れのような状態でたどり着いた私は
ダッシュでシャワーを浴びて、
ボロ切れじゃないふりをして、病院に直行した。
父はその日に転院することになっていたので、
どうしても付き添いたかった。

約8ヶ月ぶりに会った父は
すっかり小さくなっていた。
10年前にパーキンソン病と診断されてから、
それまでの数年間は、帰国する旅に
小さくなっている感はあったけど、
入院して寝たきりになってからは
小さくなるスピードが加速していた。
入れ歯も外さなければいけなかったので
余計小ぶりなおじいちゃんに見えた。

私が病院に着いた時は
病室は転院準備でバタバタしていた。
父は目を開けていた。
駆け寄って
「ただいまー!」と手を握ると
しっかり「おかえり」と言ってくれた。

思うように体が動かせなくなっていた父は
スムーズに会話を続けるのが難しいと聞いていたので
それだけでも思わず感涙、しそうな私を真っ直ぐ見すえて、
父ははっきりと言った。

「かりんとう、食べたい。」

食べ物を飲み込む、嚥下機能が弱くなってしまった父は
2ヶ月前に入院してから、水を飲むこともできず
首の大動脈からのチューブで全ての栄養をとっていた。

栄養は十分とれていても、「味わいたい」は別なのだ。
水もダメなのに、かりんとうを食べるなんてもっての他だ。

私は半泣き笑いで、
「そうかー食べたいかー、
そうだよねー食べたいよねー」
と小さくなった父のおでこを撫でた。

父はまた
「・・・かりんとう。」
と言った。

きっと、これまでの2ヶ月間、
毎日来る母や、家族や友人に
食べさせて欲しいとお願いしてきたんだな。
帰国したばかりの私は、父が食べるのをだめと言われてから
初めて会うわけだから、食べさせてくれるかもしれないと
思ったんだな。

それからの病院生活の2週間、
父は食べさせてくれと私に(多分みんなにも)頼み続けた。

「カルテにちょっとなら食べていいって書いてあったよ」
と、涙ぐましい作り話までした時もあった。

「ちょっとだけだから、お願い」

と言われるたびに

「ダメなんだって。ごめんね」

と言うのが本当に申し訳なかった。

そして、その2週間後、
父は、大動脈のチューブをとって
家に帰ってくることになる。
胃ろうもなし。

生命維持装置を全てとって、
父が家に帰ってくる。
水分補給の点滴もつけないことになった。
つまり、終わりは時間の問題。
最終的に決めたのは、キーパーソンである母。
もちろん苦渋の決断だった。

「病院は治すところです。
どんなに本人が食べたがっても、
ハイリスクな行為を許可するわけにはいかないのです」

ドクターは残念そうに言った。
その残念そうな口調にちょっと救われた。

食べたいと言う父の願いを最後に叶えてあげたい。
じゃあ、お家に帰ろう。

それは、家に帰ってきて食べさせて
誤嚥性肺炎になってしまっても救急車は呼ばないということだった。
食べさせて、と言っても栄養になるわけではなく
あくまでも、味わうためだけだった。
嚥下機能が低下している父は
そのまま飲み込むと食べ物は気管にいってしまう可能性が大なので
味わったらその都度吸引する事とセットだった。

人生で一番大変な選択だった。
これに比べたら、結婚とか離婚とか、
ましてやフライトチケットの買い直しとか、どうってことない。

死に方にも見送り方にも
いいも悪いもない。
そもそも選べないんだから。
選べるように見えたって、それが
結局どういう結果になるか
誰にもわからない。

自分の家族が選択を迫られるまでは
延命治療なんてとんでもない、くらいに思っていた。
経験して初めてわかった。
いろんな決断をする家族がいて、
そこには百万家族いたら、百万とおりのストーリーがあって
そこには正解も不正解もない。

百万家族(もっと多いけど)のうちの一つのストーリーである
うちの父の場合を、書きとめておきたかった。
あんなに濃かった「見送る日々」が
セピア色になってしまう前に。

3年前の父の誕生日は転院先の病院で
何年かぶりに家族勢揃いで迎えた。
あたりまえだけど、一番切ない誕生日だった。

今日の父の誕生日は、百合の花を飾った。
もちろん、かりんとうも飾った。
誕生日おめでとう。ありがとう父。私は元気です。


この記事が参加している募集

振り返りnote

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?