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調来助先生、長崎で被曝した外科医、父親                  〜ある女の子の被爆体験記~医師として、広島駅での伯母の被爆を記録に。4/50

調来助(しらべ らいすけ)先生は、長崎医科大学の第一外科教授でした。そして、5人の子供の父親であり、原爆症の患者にもなりました。外科医で観察眼の鋭い先生の手記は、その表現に真に迫るものを感じさせます。淡々とした表現を読みながら、父親としての先生の心を想うとき、それは原子爆弾や核兵器について、現代の人々に何かを教えてくれるものだと思いますので、ここで紹介させていただきます。

私も一人の医師として、調先生にお会いして、おはなししたかったです。

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調先生には医師を目指して勉強していたご長男とご次男、高等女学校の長女、小学生の二女、三女の5人のお子さんがおられました。ご自宅は爆心地から4km離れたところにありました。8月8日の朝に、長崎医科大学の医専で勉強するご次男は、熱があったので学校を休むように調先生は言いました。でもご次男は「勉強が遅れる」といい、調先生は一緒に大学までいっしょにいきました。先生はその日は当直で大学病院に泊まりました。

1945年8月9日午前11時2分、調先生は爆心地から700mのところにある長崎医科大学の病院の2階の部屋にいました。数日前の爆撃で、部屋の窓ガラスは割れてすでに無く、窓ガラスは飛び散ることはありませんでした。原爆投下の瞬間、先生は光を直視するような体勢ではなかったようですが、ぴかっとした光を感じた瞬間に洗面台の下にしゃがみ込み、同時にコンクリートの建物がつぶれるのではないかと心配するほど激しく揺れる衝撃をしばらく感じていました。

何とも形容できないような悲惨さ..学生の衣服はボロボロ‥髪の毛は焼け切れて坊主のよう。グタッとなってその辺に寝転んでいる人もいる。..手すりにぶら下がって動かない人。多分死んでいたんでしょう。その辺に死んだ人も数人いました。(「医師の証言 長崎原爆体験 調来助/吉澤康雄 著」1982年東京大学出版会 より要約)

調先生は、尋常ではない事態がおきたことをすぐに自覚し、

「負傷者の治療をしなくては!」

と一目散に病院の外来を目指し走りだしました。ところが病院の玄関前は、負傷した看護師や医師や患者が大勢、外へなだれのように出てきていました。みんなけがをしていて、丘の上へ避難しました。そして、先生は原爆が投下された9日はずっと丘の上で、大勢の治療をして回っていました。大きなけがをした同僚や患者たちに、有効な治療薬などありませんが、それでも治療をして回りました。内科の図書室から火が出ているのが夜中見えました。調先生は、次男がこの丘のどこかにいるのではないかとずいぶん探したようですが、見つけることはできませんでした。他の人にも頼んでずいぶん探してもらったようですが、残念ながら見つかりませんでした。夜遅くになってようやく、調先生は丘の上で少し眠りました。

翌日の10日、大学病院の外のサツマイモ畑で、亡くなっている看護師を見つけました。知った顔の同僚たちが亡くなった姿をいくつも目にしました。丘の上では十分に治療できないと、調先生は、8月10日の午後に滑石に建物を見つけてきて、治療の仮拠点としようと決めます。

先生は10日に、ようやく家へ帰ります。

家族は調先生が生きていたことをずいぶん喜ばれたようです。しかし、長男のやけどはかなり酷いものでした。工場の窓から熱線が入り直接浴びてしまったらしく、背中一面やけどになってしまいました。そして、8月16日に残念ながら他界されます。

近所の人が次男を捜すのを手伝おうかと行ってくれましたが、「生きていたらそのうち帰ってくるでしょうから、いいですよ」と先生は言います。

それでも毎日、調先生は、負傷した方々を治療しつづけます。

次男について聞かれ、「医師の証言 長崎原爆体験 調来助/吉澤康雄 著」の中で、調医師は次のように話します。

「そうです。焼け死んでおりました。というのは、階段教室で講義中だったと聞いたので、家内や子供と一緒に行ってみましたが、階段なんて焼けて閉しまって無いんです。八月二十八日で三週間近くもたっていたので、その間に誰か来たんでしょう。白骨に小さい山が四つ五つ出来ていました」「医師の証言 長崎原爆体験 調来助/吉澤康雄 著」1982年東京大学出版会P16 引用)

どうしようもない状態の中、誰の骨でもいいから持って帰ろうかと話していた時、一番下の娘さんがあるものを見つけました。

「お母さん、ここにこんな物があるよ」

入り口に倒れた金属のドアに、ズボンの前ボタンの部分がこびりついており、裏には白い布に「山本」と書いてありました。

調先生の姉の息子が軍医でラバウルに行っていたので、その子の「山本」と書かれた制服を、次男はもらってはいていたのでした。

「その頃学友たちは黄色い国民服を着ていたのに、その焼け残りの服は紺サージの服だったので、すぐに次男だということがわかったんです。そのそばに黒こげになった死体がありました」(「医師の証言 長崎原爆体験 調来助 吉澤康雄 著」1982年東京大学出版会P16 引用)

調先生は、息子さんお二人を、治療も十分にできない、身近にいながらも助けることもできない状態で亡くされました。

次男さんがみつからずに近所の人に「さがしましょうか?」といわれたとき、調先生が、見つけられるなら探したくなかったわけがありません。  どんな想いで、負傷者を治療し、どんな想いで次男や長男のことを考え、どんな想いで負傷者を治療できる場所を探し、どんな想いで医師をしていたのか。調先生の体験を読むと、心が震えるのを感じます。



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