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家族を家族たらしめるものとは

  最近、4年ぶりに演劇公演に携わっていて、その公演の作品がレンタル家族の話だから、ここ1ヶ月はずっと頭の片隅で、家族というものについて思考を巡らせている。だけど「家族とは何か」こんなことを問われても、なかなかひとことでは言い表せなくないか?
 とりあえず私は、自分の家族のことを「血縁がある他人」だと、ざっくりと捉えているけれど。これもひとえに正解とは言い難いであろう。とはいっても、血縁がある=家族というわけでもない。血縁があろうがなかろうが、自己と他者のあいだには絶対的な隔たりが存在する。

 例えば、私の近しい家族の話をすると、お互いの歳が近い両親や、21世紀生まれの歳が離れた弟がいる(私は1996年生まれ)。彼らは基本的に、私が足繁く通う劇場という場で、映画や演劇を観ることは殆どないし、音楽の趣味もそれぞれ全く異なっていて、読書も必要最低限しかしないようだ。そして、私以外の3人はアパレル業界の仕事(アルバイトも含む)の経験があり、近視・乱視・不同視の低視力フルコンボの私と違って、眼鏡やコンタクトレンズを日常的に使用しない。

 ちなみに、この共通点が少ないと見受けられる家族たちの中でも、子ども時代に最も長く同じ時間を過ごしていたのは弟だった。しかし、彼は私がいくら『カッコーの巣の上で』(1975)の素晴らしさを語ってみたとしても、特に興味を示さない。また、私の部屋はかつて1000冊近い漫画・文庫本・文芸書・新書などの大量の紙の本でごった返していたのだが、その中で興味を示して全巻読んでいたのもせいぜい『聲の形』(2013、講談社)くらいだった。

 それでも、まったく違うけれど家族だし、まったく違うから家族なのだと思う。ほかの誰でもない私が、確信をもって彼らのことを家族と認識する限りは、誰が何と言おうと家族。現代社会において、家族の形は第三者の主義思想によって判断されるものではなく、個人が各々の主義思想に基づいて、自立的に判断するものだ。


 衝動的にこの文章を書き始めたわりには、こんがらがっていた頭の中がすっきりした。今日はよく眠れそう。おやすみなさい。


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