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おしゃれしてない方が魅力的に見えるサイエンス

おしゃれは人間の本質ではない。最高におしゃれで意地悪な人よりも、外見を何も気にしない温かい心の持ち主のほうが何倍も魅力的ですもんね。

そのうえでしかし、素敵な人の姿に憧れたり真似したりして、飾ることを楽しみ、人生を彩りたいわけです。

私も、映画や雑誌をお口半開きで見つめ、いつかこんなふうに軽やかに強く自分のスタンダードを作っていけたらな、と思いながら暮らしています。

でも最近、矛盾も感じるんです。なんていうか、おしゃれをしていない方がむしろ魅力的に見えるときがあるんです。

「おしゃれじゃなくても十分素敵」とか「ダサカワにぐっとくる」とかではなく、外見に執着しないからこそ見えてくる美、想像力のつけ入る余白、のようなものに惹かれます。

まぁ、雑誌や映画という、ミリ単位で計算され創られた作品をみて「おしゃれじゃないのに・・」とか言ってる時点で見当違いな消費者感丸出しだし「モデルが違うんだよモデルがっ」と一蹴されてしまいそうですが、いずれにしてもこの、余白のサイエンスを無視できません。

たとえば、映画『午前4時にパリの夜は明ける』のシャルロットゲンズブール。(シャルロット出すか・・ハードル・・)

シャルロット演じるエリザベスは髪の毛ボサボサ、お肌も乾燥していてサイズの合っていない洋服からは、たとえ時代背景を考慮してもおしゃれ度は低い。

通常、衣装は時代背景や役柄の人物設定に合わせて衣装は決まるものです。しかし仮にここで、エリザベスが(役柄に見合う範囲で)いい感じにファッショナブルだったら、、と想像すると、むしろ彼女の魅力は半減して映るのではないかと思ったのです。

素敵なファッションはむしろ余計な情報として機能し、不要なフィルタの役割を果たす可能性があったのではないか・・と。

昔は、「芯に強さがあるような女性は普通の着こなしでも美しいんだなぁ」と思っていましたが、逆に言うと、普通の着こなしだからこそ芯の強さや優しさが浮き立っているのかも??

で、もっと言いたいのが、この仮説って私たち一般人に当てはめてもいいんじゃないかってことです。

おしゃれという鎧を剥いでいけば、心もとない人間性、薄い教養、単調な日常が露呈するわけで、そんな痛い思いをする覚悟はできていない。なにより、おしゃれをあれこれ考えることって楽しい!しかし、

人生は短い。

鎧を外した自分自身に慣れ、公開することで鍛えられる魅力ってあるんじゃないかと思いました。人生の後半は、おしゃれのセンスを磨くのと同じくらい、公開できる筋肉をつけていきたいと思います。

それぞれの魅力や個性にアクセスしやすい薄着な社会、目指しませんかー?


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