法改正反対・誹謗中傷・番組打ち切り

最近、立て続けに世間を揺るがすニュースが起きている。

そのことについて色々考えることがあった。

まず第一に、ネット上の誹謗中傷問題について。

誹謗中傷のコメント自体には大反対なのは当然なんだけど、それ以上に注視したいのは「ネット上の誹謗中傷を法規制しよう」という動き。

悲しい事件があっただけに、このムーブメントが変な加速の仕方をしないのか心配である。

私は大学でヘイトスピーチ規制についてのゼミに所属していたため、この議論はすごく関心を持った。

結論からいうと、私自身は誹謗中傷規制には反対なのだが、このムーブメントが抱える問題について個人的に考えた事・大学で学んだことを含めて書いていこうと思う。

ただ、こんなことを言っておきながらこの問題の抱える主たる論点は一つで、それはメディアでも言われている通り「批判と誹謗中傷の区別」である。

これは私が学んでいたヘイトスピーチの規制についても同様のことが言えるのだが、私が思うに、両者に共通する前提として認識すべきことは「不快に思うこと」と「誹謗中傷をうけること」は区別されるべきであるということ。

と言っても正直この2つの間にはグラデーションが存在しており、その線引きが難しいのである。

ここで大学時代の私は、ゼミの講義の中でこの問題への解決策として、そうした批判or誹謗中傷に「正当性があるかどうか」を基準にするのがいいのではないか、と考えた。

例えば私が誰かに「お前みたいな人殺しは嫌いだ」と言われたとする。

勿論、わたしは今までに人を殺めたことはないので、この意見に正当性はなく、「誹謗中傷」だと言える。

一方で「お前みたいな自己中は嫌いだ」と言われたなら、私にはそうした一面があることは自ら理解しているし、この意見は正当性を帯びているものとして、この言葉を私は「批判」として受け止める。

しかし、ここで同じゼミに所属していたあるメンバーから質問された。

「ある飲食店の店主が『黒人の入店お断り』という看板を店の前にたてたとする。その店主は根っからの黒人差別主義者である。この時、店主は自らの信念に基づいた正義として看板を掲示したが、これにも正当性があるため誹謗中傷には当たらないと判断してよいのか?」

私の理論で考えると、店主の主義主張に関わらず「黒人の入店お断り」という文言に正当性はないため、これは誹謗中傷であると判断される。

しかし、その人は加えて私に質問してきた。

「ほんとの差別主義者のなかには、本当に敵対視している人種と会うと、身体的に吐き気をもよおしたり具合が悪くなる人がいる。そうした人たちにとっては自分の身体を守るための防御策としての看板であるかもしれない。このように考えると、看板の文言にも正当性がでてくるのではないか?」

私は、なにも言うことができなかった。

たしかに、そう考えると同じ文言でも「正当性」の在り処は変わってくるのだと初めて理解した。

そうなると、私の理論は通用しないこととなる。

つまりは私にとって、批判or誹謗中傷の区別はできないことである、と結論づけた。

そう考えると、誹謗中傷を規制することでえる平穏と、表現の自由を規制されたことで生じると考えられる危険を天秤にかけ、私は誹謗中傷の規制について反対と立場をとる。

また直近の問題で考えてみても、検察庁法改正の議論においてツイッターを中心とするSNSによって憲法改正を阻止した、という事例もある。

もし、ネット上の誹謗中傷が規制される社会だとしら、こうしたSNS上の政治に対する動きでさえ規制の対象となりうる。

この仮定の社会は想像するだけでも恐ろしいものであろう。

「政権批判と誹謗中傷は違う」というのはもっともであるし、私もそうだと思う。

ただ批判と誹謗中傷の間にグラデーションがある限り、感覚では理解しつつも、法制定するにはかなりの困難があるだろう。

なによりも憂慮すべきは、急いで中途半端な法制定を行い、政府が政権批判すらも規制できるような抜け道の存在する法律が作られてしまうことである。

ただこうした批判と誹謗中傷のグラデーション問題を考える上で思ったのは、本来その2つの間は質的な違いとして捉えているけど、量的な違いもあるのではないか、ということ。

どんなに的確な「批判」だとしても、数件ならまだしも数百件きたとしたら、受け取り側のダメージは誹謗中傷と同じ程度のものになりうるのではないか。

この事実を無視して、「正論だから良いんだ」といって受け取り側に大量の批判メッセージを送ることも、無条件に正当化してはいけないのではないか、と考える。

大量の「批判」は「誹謗中傷」になりうるのではないか。

と、わたしは考える。

ただ、この誹謗中傷問題についてもうひとつ違う側面で私が憂慮していることがある。

それは、テラスハウスの放送打ち切りに関する問題である。

この話はまた今度。

次回も、何卒。

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