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大好きなおばあちゃんへ



 共働きの両親のもとで育った私の、一番傍にいてくれたのは父方の祖母だった。


 小さい頃から大のおばあちゃん子で、祖母の後をついていき畑でミミズと遊んだり、子ども用包丁を使って一緒に料理をしたり、縄跳びをしたり、一緒に寝たり、本当にたくさんのことをやってもらった。

 中学高校に通っている時には、地元の駅まで迎えに来てもらい、夕飯の買い出しに一緒に行って、両親は遅くなることが多かったので二人で夕飯を作って食べる、という毎日を送っていた。誰よりも長い時間を過ごしていた祖母には友達にも言えなかったことでもなんでも言えた。


  本当に本当に本当に大好きなおばあちゃんだった。


 祖母が亡くなったのは五年前。ガンだった。私が幼稚園に通っていた時に発症したものが悪化したことが原因だった。私がこのことを知ったのは祖母が亡くなる3か月前。祖母にたくさん話を聞いてもらっていた間も祖母は闘病し続けていたのだ。


 大学の後期試験が終わった直後父から「早く帰って来られないか」と言われ、すぐ飛行機に乗って地元に戻った。病院に駆けつけると本当に小さくなった祖母がそこにはいた。呼吸も辛そうで命の灯がゆらゆらと揺れているのが分かった。

 泣くのをこらえて「おばあちゃん、帰ってきたよ」と言うと祖母も涙をこらえるようにして微笑んでくれた。それから数時間、体調に注意しながら話をしたが、祖母は最期まで私の将来を心配し続けてくれていた。

 祖母が亡くなったのは私が帰ってきたその日の晩。「また明日来るね」と掛けた言葉は叶うことはなかった。駆けつけた時にはもう息を引き取っており、お医者さんから「ご臨終です」と。

 だんだんと冷たくなっていく祖母の手の感覚は今でも覚えている。農作業をたくさんして、節が曲がってしまっていたけれど、温かくて、いつも撫でてくれた優しい手が、段々と固く、ひんやりとしていった。駆けつけた家族が皆悲しむ中、一番私が取り乱して泣いていた。


 それが病院で泣いてから葬儀までの間、不思議と涙が出なかった。あんなに大好きなおばあちゃんだったのになんて薄情な孫なんだろうとその時は思っていた。けれどそれはショックが大きすぎて現実として受け止められていなかったのだと今は思う。

 15年間お世話になったピアノの先生もお焼香に来てくださった。祖母に挨拶をした後、私にそっと「祖母と孫だったけど、姉妹のようでもあったね」と言ってくれた。その時はわからなかったけれど、おばあちゃんは本当に私を色んな立場から見守り、育ててくれていたんだと、今なら分かる。

 最期祖母が眠る棺桶に、祖母が大切にしていたものや花を入れていくときになって本当に祖母が手の届かないところに行ってしまうのだと気づいて少しだけ泣くことができた。

 ぼんやりとしたまま葬儀と納骨を終え、それぞれが自分の日常に戻っていく中、その頃から私だけが置き去りにされてしまった感覚を持つようになった。そして祖母が亡くなった現実と大好きだった人を亡くした喪失感の板挟みとなり、私は祖母の死を受け入れることをやめてしまった。それがうつの始まりだったように思う。


 今もうつは寛解はしていないけれど、最近やっと祖母の死を受け入れられ、今まで祖母にかけてもらった愛情に対して「今まで本当にありがとう!」と言えるようになった。このnoteがその証明だ。こうして私が命を諦めずに生きていられるのは両親や周りの人、そして祖母が今まで支え続けてきてくれたからに他ならない。色んな人に支えられて私が今生きている。


 しかし祖母に対して後悔がないと言えば嘘になる。もしかしたら、と思いながらも大好きな祖母がガンであるという現実に向き合えなかった、その情けなさ、不甲斐なさ。もっと優しくしてあげられたんじゃないか。もっとおばあちゃんのやりたいことを聞いてあげられたんじゃないか。もっと、もっと、もっと……

 後悔は本当に尽きない。けれどいまの私にできることがあるなら、仏壇やお墓の掃除と私が生きていることかなと思っている。

 これを書いている今も涙が止まらないし、思い出すたびに会いたくて会いたくてたまらないのだけれど、こんなに泣いていたらおばあちゃんに心配をかけてしまうから、前を向いて自分なりに精一杯生きてから、おばあちゃんに会いに行きたいと思う。


 おばあちゃんの期待通りの孫じゃなかったかもしれないけど、今頑張って生きてるよ。こんなに大きくなるまで育ててくれてありがとう。本当に感謝しています。これからは自分の人生を一所懸命生きていくから、どうか見守っていてね。大好きだよ!


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