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2022.2.4

 今日も美味しいごはんを頂くことができました。本当に感謝です。

 昨夜、湯船に浸かりながら考え事をしていた時に

「高等教育を受けたものは、それが受けられなかったもののためにその能力を使わなければならない」

 教授がかつて仰られていたことがふと思い起こされた。ノブレス・オブリージュとは違うのかもしれないが、自分の立ち位置を見定め、社会にどう貢献していくのかへの自覚を持った、強い言葉であった。


 私が今のような状況になる前は、家族関係のバランサーとして、見返りも求めず心を擦り減らし、家族間だけではあるが貢献をしていた自負があった。しかし、それをいくら繰り返しても世のため人のために更に貢献しようといった考え方にはなっていかなかった。所属している某宗教団体にも小さい頃から、自分よりも他人を優先することを説かれ、奉仕という名の社会貢献を求められてきたものの、十年以上経っても遍く世界のために身を粉にして働こうとは思えなかった。

 何故こうも理想とかけ離れているのか、風呂場でじっくり考えた。

 私の結論としては

 誰かのためにと頑張ってきたのに、更に社会貢献しようという気持ちにならなかったのは、

 ①社会貢献をしたいと心から思っていなかったから

 ②社会貢献の本来の役割や意義について知らなさ過ぎたから

 ③人に尽くす行動をしながら、結局は本質的に自分のことしか考えていなかったから、未成熟な個人だから

 かなと思った。あっているかはわからないが今はそう思っている。

 ではその状況から教授が仰ったような正しい意味での貢献をしていくためにはどうすればよいのか。

 私は精神的な成長を図っていくとともに『誰かに、何かに貢献したい』という自分の内から湧いて出てくるものにこそ従うべきなのだと思った。

 確かに身勝手で尊大なエゴを諫めることは重要で、その面では私が今感じていることも傲慢な考えなのかもしれない。けれど、心から納得できないことに従い続けるのは結果として自分のためにならないのではないかと最近は考えている。

 また、小さい頃から経済的に恵まれていることへの罪悪感とそれを還元できない自分への嫌悪が強かった。今は自分自身が恵まれすぎていると悩むなら、自分の能力を誰かのために、自分が持っているものや時間を使っていけばいいと思うようになったのだが、大きな理想を語ってもこの現状。まずは自分自身の経済的、精神的自立を目指し、それから行動していければと思う。

 万年思春期のような葛藤を拗らせていた私が、こう思えること、思えるようになったことが本当に有難いことだと強く感じている。

 これからは両親をはじめとした周りの人、ひいては社会への恩返しのために、私にできることがあるのなら取り組んでいければと思う。

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