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レクチオディヴィナに魅せられて

レクチオ・ディヴィナ(聖なる読書)はカトリック教会で長く慕われてきた神の御言葉を心で読み、じっくり味わう聖書の読み方である。レクチオ(読書)、メデイタチオ(黙想)、オラチオ(祈り)、コンテンプラチオ(観想)という四つのステップがあり、個人で行なうこともできるし、グループで分かち合うこともできる。初めて私に聖書を正式に教えて下さったのは某カトリック修道会のシスターであったが、そのシスターが、このレクチオ・ディヴィナの方法を教えてくださった。シスターとの聖書勉強会は決して一方的な講義方法によるものではなく、聖書の知識は伝授してくださりつつも、あくまでも平等に共に少しずつ聖書を読み分かち合う形であったので、その中で私はシスターに導かれつつ、イエスにより近づいていくことができたと思っている。
シスターは、新約聖書は、福音書の中で一番古く書かれたマルコによる福音書から読み始めると良いと教えてくださり、マルコから読み始め、時々、旧約聖書の重要な箇所を導入してくださった。シスターと共に読み分かち合った聖書の御言葉のうちで忘れられない二つの箇所がある。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。(『マルコによる福音書』第1章第16節ー18節)

それゆえ、わたしは彼女をいざなって荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、わたしはぶどう園を与えアコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったと
きエジプトの地から上ってきた日のように。(『ホセア書』第2章第16節ー第17節)

上記のマルコの福音書を読んだ時、シスターは仰った。「シモンは漁師として一生懸命自分と家族のために働き普通の生活をしていた。人は一生懸命生きていると神様に出逢えるのですね。」又、 下記の旧約聖書の箇所についてはシスターはこう仰った。「神様と出逢う場所は荒野なのですね。」私はシスターに尋ねた。「それは荒野に行かなければ神様の言葉が人間の心に響かないからでしょうか。」シスターは静かに微笑みながら返された。「その通りだと思います。なので毎晩、1日を振り
返り今日の荒野は何だったか神様に問いかけ学びを得るようにすると良いと思います。私も今後も続けていきたいことです。」

他にもここに書ききれないほど、シスターと共に分かち合った素敵な聖書の箇所は沢山あるが、この二つは特に私と本当の神との出逢いを象徴的に表しているという点で非常に気に入っており、大好きなシスターとの思い出と共に生涯私の心に深く残存するものであると思っている。「本当の」神と私が敢えて言う理由は、私は受洗前まで某新宗教の熱狂的信者であったためだ。私は現在54歳になるが、カトリック洗礼を受けたのが33歳の時である。一時期その新宗教の海外伝道まで志したこともあった私であったが、なぜかいつも心が乾いており、満たされてはいなかった。20代の時、イギリス留学中、観光で立ち寄ったオックスフォードの小さな教会に入り、お御堂の壁に Good News (福音)と書かれたバナーを見つけ、その文字を見た瞬間、これから何か新しい物で私の心は満たされていくであろうという強い予感がした。あの日、私は本当の神、天の父に初めて会ったのだと思う。クリスチャンになるためには罪の自覚が必要である。荒野という試練が待ち受けていた過酷な神との出逢いであったが、自分が罪人であるということがはっきり分かり、イエスを受け入れざるを得ないような状況になり、私は受洗した。しかし、長年進行してきた新宗教の信仰を棄てるということはなかなか容易いことではなく、受洗までに8年かかった。烏滸がましくもあるが、シモンのように自分なりに一生懸命真理を求めて生きてきたから、イエスが私を見つけて下さったのだと思っている。

私は心の中の荒野で神に出逢い、罪人の自覚に至り、私なりに懸命に何かを求め生きてきた時に主に見つけてもらえた。最近、50を過ぎて奇跡的に母親になれた私はどうやって息子に私の信仰を伝えたら良いか路頭に迷っているが、心の中で実はもう結論は出来上がっている。それは、息子にレクチオ・ディヴィナの方法で聖書を読むことを知ってもらうことだ。夫は中国系東南アジア人の仏教徒。私はクリスチャン的生き方を誇れない罪人。夫は息子が幼児洗礼を受けることを理解してくれているが、夫や息子に私の生き方を100%モデルとして教える自信がない私は、シスターに教えてもらったように共に分かち合いながら聖書を読み、それぞれが神に出逢えるような方法で信仰を家族に伝えられたら良いなあと思っている。私自信、カトリック信者になった後もプロテスタントに惹かれた時もあり、宗派の中で迷いを今でも時々感じている。そんな中、やはりカトリックで落ち着いていることの大きな一つの理由は、レクチオ・ディヴィナ自体が私の宗派のように自分自身思っているからだと思う。結局は、宗派とは神学理論の正当性、妥当性等によるのではなく、神との関係性という信仰の本来の在り方が、どの宗派によって、最も確固たる物として、その人によってありえるかということであると私は考えている。真の神と、真の自分 ー 心が裸の状態の最も弱い、最も自分らしい人間としての自分が本当に出逢える場所、それがバイブルの世界であると私は思うし、レクチオ・ディヴィナによってそれが最も可能とされると考える。所詮、私は、キリスト教が好きなのではなく、バイブルが好きなのであるというところで教会へ足を遠のきがちになっている自分を慰め、レクチオ・ディヴィナを宗派のように慕っている自分さえいる。

だから私は今夜も1日を振り返り、今日の荒野を思い返し、心で大好きな聖書を読み、休むことにしよう。


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